人間というものは、巨大な力の前では、卑屈になる。大きな力にしいたげられると、その力を憎むのではなく、同じようにしいたげられている隣人にその憎悪を向ける。ぼくは、これまでうんざりするほど、そのありさまを見てきた。その経験は、ぼくに深い人間不信を植え付けたように思う。もちろん、ぼくも弱い人間で、その嫌悪の対象には自分も含まれる。
「赤穂浪士」の話を知ったのは小学生のころだろう。のっけから変な話だと思った。浅野内匠頭を死に追いやったのは吉良上野介ではなく、江戸幕府である。四十七士は倒幕を企てるべきだと考えるが、当時の幕府は、まだまだ強く、とても逆らえない。そのため、「復讐」の対象に吉良が選ばれた。いい迷惑だったと思う。そんな赤穂事件については、丸谷才一さんが御霊信仰による祝祭であった、と興味深い考察をなさっている。
「アンネの日記」の前半は、拘束された人間の異常な心理状態を克明に描いている点で、ドストエフスキーの「死の家の記録」、ソルジェニーツィンの「イワン・デニソーヴィチの一日」に並ぶ傑作だと思う。ナチスに追われて狭い空間に複数の家族が息をひそめて暮らすことになった。その精神的重圧が、同居人や家族への憎悪に変貌してゆくありさまを、アンネは、自らの心情の変化も含めて、精緻に描写している。
元禄時代は、将軍綱吉の強権政治の下で、見かけの上で、安定はしているが、人々は、日々、恐怖にさらされていた。その心理的屈折が、赤穂事件の礼賛に向かったのだろう。幕府もそれを敢えて弾圧しなかったのは、吉良に憎悪が向けられることで、むしろ幕府への批判が避けられる、そう判断したからだと思う。この手段は二十世紀の独裁者もさんざん使った。ユダヤ人や「反革命主義者」を悪と祭り上げて、自身の安泰を測る。そして、この手口は、今でも、もっと小さな組織でも頻繁に使われていると感じる。
歌舞伎の「忠臣蔵」はフィクションなので、構わない。しかし「赤穂浪士」が無批判に賞賛される社会はいかがなものか。
アンネ・フランクは、ナチスの手がいよいよ迫りくる時期になって、次第に、隣人を、世界を、大きく許すようになる。愛するようになる。その過程には不思議な輝きがある。確実に死が近づく事態の中で、それまでの憎悪からぬけだし、より尊い人間のありように手をのばした。その光がさしてきた時、日記は終わる。死に瀕した人間には、その光が見えるのだろうか。その光を見た人間は、それから何を語り何を行なうのか。それを知ることができないのを残念に思う。しかし、光があることを示してくれたこの記録は、人間への希望をもたらしてくれる。ナチスに惨殺されたかわいそうな少女の記録というだけではなく、人間の普遍的な尊さを示しえた傑作だと思う。