- 9月10日
この数年、自分自身の考え、価値観をしっかり持って世間の目を気にせず生きていくヒロインの物語を読み続けている気がする。最初に読んだのは「こちらあみ子」だった。あみ子は率直である。言うこと、やることに裏表がない。思ったことを、口出し、行動に移す。それは、本来、少しもおかしなことではないはずなのだけれども、それによって、あみ子の家族や周囲はどんどん壊れていく。なぜ率直さ、素直さが、そのような結果を生むのだろうか。そこからこの物語の読後感が生まれる。
読書好きの友人に「こちらあみ子」を教えたら代わりに教えてもらったのが「コンビニ人間」だった。コンビニ人間のヒロイン恵子はずっとコンビニエンスストアで働き続けていてそのコンビニエンスストアというシステムの中にまさに同化したような存在である。例えばカフカとか、あるいは安部公房「砂の女」のような作品では、システムの中に巻き込まれていく人間の悲劇を、その外から見た映像が描かれていたような気がする。ところが、この「コンビニ人間」では、コンビニエンスストアというシステムの中に同化してしまった恵子から、外の世界を見ると、その外の世界にいる人間が愚かに見える様子が描かれている。これはすごいと思った。「砂の女」を裏表ひっくり返したような作品。安部公房さんがお元気であれば、どういう感想を抱かれたであろうか。
そして次に読んだのが「ハンチバック」。私は世間の評判になっている小説を読むというのをためらうという変な見栄がある。「こちらあみ子」も「コンビニ人間」も文庫本で読んだ。「ハンチバック」も文学賞を受賞されて、話題になっていて、迷ったのだが、しかし、これは読まなければいけない小説だと思って、単行本を買って読んだ。圧倒された。このヒロイン釈華も、また、自らの価値観を強く信じて疑わないヒロインである。重度身体障害者である釈華は健常者を見下している。何の迷いもなく見下している。それが素晴らしい。健常者の端くれである自分自身が立っている。その足元が突き崩されるような思いにかられた。
その次が「成瀬」である。「成瀬は天下を取りに行く」「成瀬を信じた道を行く」。この本を読んだ理由は、このヒロイン成瀬あかり嬢が、私と同じ県立高校の出身であるというのが理由であった。そしてこの成瀬も、やはり、表題にもあるように、自らの価値観を持ち、周りから何を言われようと、その価値観を貫く、いや、意図的に貫くのではない。自分に素直に生きているだけである。これまでの小説、「あみ子」や「コンビニ人間」「ハンチバック」においては、ヒロインは、その独自の行動によって、むしろ周囲を破壊する、そういう傾向があった。しかし成瀬は、むしろ、歪んだ周囲を癒す。そこに感動した。これまで何かといえば、人の目を気にしない、自分の信じた道を進むという人間は、例えばアスペルガーだ、発達障害だ、などと言って差別されてきたような気がする。成瀬も数年前なら、そういう判断を受けたに違いない。しかしながら、この物語の素晴らしいところは、そんな成瀬が、むしろ世界を変えていく、明るく自由な方向に開放していくところ。何度読み返しても、この成瀬の二冊は、読み返すごとに、涙ぐんでしまう。もちろん喜びの涙である。
そして去年読んだのが「菜食主義者」。韓国のハン・ガンさんの作品である。このヒロイン、ヨンヘは、韓国の、父親を主軸とする食生活を通じた伝統的な社会システムから堕ちていく。それは一つの悲劇なのだけれども、そこから見える景色は、そういう伝統的な価値観、そこから堕ちた人間にしか見えない世界、エロスであり、生きているということの根源であるような映像である。これにも圧倒された。偶然だがハン・ガンさんは三島由紀夫の自決の二日後に生まれていられる。「堕ちた人間が生きようと決意する」作品「金閣寺」を書いた三島さんが「菜食主義者」を読まれたら、どういう感想をいだかれたか。
我々は何かしら、伝統的な価値観の世界、その中で穏やかに過ごしている。その中で異を唱えること、自分自身の生き方というものを貫くこと、それは時に周囲を破壊することにもなり、また自分自身が苦しむことにもなる。しかしながら今、既存の価値観が揺らぐ世界の中で、一人の人間が自分自身の価値観に戻ること、それが重要なのではないか。そうしたことを、一連の素晴らしいヒロインたちの物語を読んで感じた。