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  • 2021年4月4日

「交響曲」というと、クラッシック音楽の中でも、とりわけ重厚なイメージがある。でもそれはベートーヴェン以降だと思う。


77歳まで生きたハイドンは106曲の交響曲を作曲したらしい。ぼくはほとんど知らないのだが、有名な「驚愕」や「時計」をちょっと聴くと、軽い冗談音楽に思える。35歳で早世したモーツァルトでさえ41曲の交響曲がある。ごめんなさい、ぼくは晩年の40番、41番しか知らないけど、それらはすばらしい貫禄がありますね。


「交響曲」を「作曲家が自らの精神、情念を託した巨大な存在」にしたのはベートーヴェンで、56年の生涯でご存じのように9曲しか交響曲を作曲していない。でも、それらは、それぞれ存在感が大きい。


「第9の呪い」という、よく知られた話があって、ベートーヴェン以降の作曲家は、「交響曲第9番」にたどり着く前後に死ぬという。「9番」の作曲中、あるいは作曲後、死んだのは、シューベルト、ブルックナー、ドボルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなどなど。


グスタフ・マーラーはベートーヴェンの後、交響曲という形式で、その表現の可能性、限界に挑戦していたように思う。第6番では、ムチ、カウベル、木箱か机を大人の頭ぐらいあるハンマーでぶん殴る音まで入っている。そういう試みが後世に及ぼした影響は大きいのではないか。


たとえばジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」の様々な曲は、マーラーより前の作曲家の作品を切り貼りしても似たものすらできないと思うが、マーラーの交響曲の切り貼りなら、そこそこ似た迫力の曲ができそうだ。


なにかと神経質なマーラーは「第9の呪い」が気になって、壮大な交響曲第8番の次の交響曲を「第9番」とせず「交響曲 大地の歌」にした。ははははは、俺はまだ生きてるぞ、と次の交響曲「第9番」を完成し、「第10番」にとりかかって、その完成前に死んでしまった。自ら「第9の呪い」を証明してしまった。


「第9の呪い」をふっとばしたのはショスタコーヴィチで、交響曲第15番まで完成させた。またショスタコーヴィチはマーラーに私淑していて、その表現の限界を意識的に超えたのが交響曲第4番のようにぼくには思える。もし、御存じないなら聴いてください。すごいですよ。(ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団)。現代音楽に分類されるトゥーランガリラ交響曲より、とんでもない冒険を感じる。が、時はスターリン体制下。前衛的な曲を発表するとやばい、とお蔵入りになり、代わりにバカでもスターリンでもわかる「第5番」(俗称「革命」)を発表したのではないか。この曲も、それはそれでぼくは好きですけどね。

  • 2021年4月4日

ぼくの留学2年目、ツレが合流して、友人関係が広くなった。日米独仏アイスランドのDINKSおよびカップルでパーティーを開いたり、キャンプしたり、カヤックで月夜のサンフランシスコ湾を横断したりした。そこにシリアから来た青年、モハメッド君も加わった。もちろんイスラム教徒だったけど、サンフランシスコの街にはアラブ系のカフェやレストラン、食材店があったので、不自由はなかった。


モハメッド君はシリアの耳鼻科医で、アメリカの医師の資格もとるために留学していた。聡明でくったくのない人だったから、すぐにうちとけた。ぼくたちは、最初は宗教のことについて触れることは遠慮してたけど、親しくなるにしたがって、いろんな質問をし始めた。モハメッド君はニコニコしながら丁寧に説明してくれた。


どうしてイスラムでは奥さん4人まで認めてるの?

昔、アラブでは部族間の戦が多かった。その結果、夫を亡くした女性が増えた。経済力のある男性が彼女たちを守るためにできた習慣なんだ。


どうしてブタは食べないの?

昔は、ブタには危険な寄生虫が多かったからだよ。


お酒飲んだことないの?

・・・うーん、実はシャンパンをなめたことが一度だけある。ありゃコカコーラみたいな味だねぇ・・・などなど


そしてモハメッド君は言った。シリアは原油から得られるお金で豊かな国なんだ。だから国民全員の大学までの教育費は国が負担してくれる。ぼくはアメリカの医療技術も学んで、シリアの人たちにそれを広めたいんだ。そういう彼の明るい表情は今も、はっきり憶えている。


仲間みんな、モハメッド君が好きだった。そして縁遠いイスラムの教えも科学者の彼から聞くと、よく理解できて身近に感じられた。1994年ごろの話だ。


その後、「イスラム国:IS」が出現し、2012年、シリアで内戦が始まった。心が苦しくなるようなニュースがいくつも届いた。それは本来の「イスラム」とは別のものだと、ぼくは知っている。モハメッド君との連絡は途絶えている。元気でいてほしいと祈っている。

2003年初め、うつ病になった。この病気にかかった人の多くがそうであるように、最初は病気を隠し、かつ「気力で乗り切ろう」と思った。でも状態はどんどん悪化した。2004年3月、限界に達した。なんとか出社しても体が動かない。仕事ができないどころではなく、眼もあまり見えず、音も聴こえない。口がきけない。指も動かない。通院していた精神科医さんは「あなたに処方できる薬は最大限出しています。今、私が差し上げられる処方箋は2か月の休職です」とおっしゃった。確かに、もうそれしか考えられない状態だった。


「最初の一か月は何もしないで過ごしなさい」と言われた。いわれなくても、本は読めない。マンガすら無理。テレビも見れない。では音楽でも聴くか、とクラッシックのCDをセットしたが、それを聴く気力もない。ふと学生時代から好きだった大貫妙子さんのCDをセットした。聴けた。大貫さんの声とメロディーが好きだ。少女のような、かすかに少年のような、しかし穏やかで美しいおとなの女性の声、ひとつひとつの音がとても美しい。どれか一曲と言われたら「新しいシャツ」かな。ポップな「チャンス」「色彩都市」も良いなあ。「アヴァンチュリエール」の壮大な世界もいい。


しばらくして、ちょっと元気になったころ、EPOさんのCDも聞き始めた。EPOさんは80年代、元気系シンガーソングライターと思われていた印象があるが、いやいや、いくつもの曲に心惹かれる抒情的なフレーズがあって、それをのびのある高音で歌われるところが良い。「音楽のような風」「三番目の幸せ」など。


かなり回復してきたころ、アメリカで買ったPUFFYさんたち(と言うのは変か・・・)のCDを聴いていた。2001年に久しぶりにサンフランシスコに言ったら、ディスクショップに「PUFFY」という札までできていた。アメリカでヒットしてたそうですね。元気になりかけていた時期「これが私の生きる道」などと聴くと背中を押される気になった。


おかげで職場復帰しました。その後もウツは何度か襲ってきたけれども、身をもって知ったこと。ウツになったら休むしかない。早めに休んで、心が望む音楽を傍らに、ぼーっとするのが確実な回復へ向かう方法です。

Copyright © 2021 Mitsuhiro Denda
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