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  • 2021年4月4日

ぼくの留学2年目、ツレが合流して、友人関係が広くなった。日米独仏アイスランドのDINKSおよびカップルでパーティーを開いたり、キャンプしたり、カヤックで月夜のサンフランシスコ湾を横断したりした。そこにシリアから来た青年、モハメッド君も加わった。もちろんイスラム教徒だったけど、サンフランシスコの街にはアラブ系のカフェやレストラン、食材店があったので、不自由はなかった。


モハメッド君はシリアの耳鼻科医で、アメリカの医師の資格もとるために留学していた。聡明でくったくのない人だったから、すぐにうちとけた。ぼくたちは、最初は宗教のことについて触れることは遠慮してたけど、親しくなるにしたがって、いろんな質問をし始めた。モハメッド君はニコニコしながら丁寧に説明してくれた。


どうしてイスラムでは奥さん4人まで認めてるの?

昔、アラブでは部族間の戦が多かった。その結果、夫を亡くした女性が増えた。経済力のある男性が彼女たちを守るためにできた習慣なんだ。


どうしてブタは食べないの?

昔は、ブタには危険な寄生虫が多かったからだよ。


お酒飲んだことないの?

・・・うーん、実はシャンパンをなめたことが一度だけある。ありゃコカコーラみたいな味だねぇ・・・などなど


そしてモハメッド君は言った。シリアは原油から得られるお金で豊かな国なんだ。だから国民全員の大学までの教育費は国が負担してくれる。ぼくはアメリカの医療技術も学んで、シリアの人たちにそれを広めたいんだ。そういう彼の明るい表情は今も、はっきり憶えている。


仲間みんな、モハメッド君が好きだった。そして縁遠いイスラムの教えも科学者の彼から聞くと、よく理解できて身近に感じられた。1994年ごろの話だ。


その後、「イスラム国:IS」が出現し、2012年、シリアで内戦が始まった。心が苦しくなるようなニュースがいくつも届いた。それは本来の「イスラム」とは別のものだと、ぼくは知っている。モハメッド君との連絡は途絶えている。元気でいてほしいと祈っている。

2003年初め、うつ病になった。この病気にかかった人の多くがそうであるように、最初は病気を隠し、かつ「気力で乗り切ろう」と思った。でも状態はどんどん悪化した。2004年3月、限界に達した。なんとか出社しても体が動かない。仕事ができないどころではなく、眼もあまり見えず、音も聴こえない。口がきけない。指も動かない。通院していた精神科医さんは「あなたに処方できる薬は最大限出しています。今、私が差し上げられる処方箋は2か月の休職です」とおっしゃった。確かに、もうそれしか考えられない状態だった。


「最初の一か月は何もしないで過ごしなさい」と言われた。いわれなくても、本は読めない。マンガすら無理。テレビも見れない。では音楽でも聴くか、とクラッシックのCDをセットしたが、それを聴く気力もない。ふと学生時代から好きだった大貫妙子さんのCDをセットした。聴けた。大貫さんの声とメロディーが好きだ。少女のような、かすかに少年のような、しかし穏やかで美しいおとなの女性の声、ひとつひとつの音がとても美しい。どれか一曲と言われたら「新しいシャツ」かな。ポップな「チャンス」「色彩都市」も良いなあ。「アヴァンチュリエール」の壮大な世界もいい。


しばらくして、ちょっと元気になったころ、EPOさんのCDも聞き始めた。EPOさんは80年代、元気系シンガーソングライターと思われていた印象があるが、いやいや、いくつもの曲に心惹かれる抒情的なフレーズがあって、それをのびのある高音で歌われるところが良い。「音楽のような風」「三番目の幸せ」など。


かなり回復してきたころ、アメリカで買ったPUFFYさんたち(と言うのは変か・・・)のCDを聴いていた。2001年に久しぶりにサンフランシスコに言ったら、ディスクショップに「PUFFY」という札までできていた。アメリカでヒットしてたそうですね。元気になりかけていた時期「これが私の生きる道」などと聴くと背中を押される気になった。


おかげで職場復帰しました。その後もウツは何度か襲ってきたけれども、身をもって知ったこと。ウツになったら休むしかない。早めに休んで、心が望む音楽を傍らに、ぼーっとするのが確実な回復へ向かう方法です。

田中一村という日本画家がいらした。ぼくが最初に作品を見たのが、いつ、どこで、だったか覚えていないが、すぐ魅かれた。十数年前、奄美大島へ行ったとき「田中一村記念美術館」を訪ね、直接作品を見て、いよいよ感動が大きくなった。有名なのは奄美大島の植物や動物を描いた作品で、植物の描写は、ちょっと見るとアンリ・ルソーに似ている気もするが、よく見ると描写の写実性が凄い。50歳で奄美に定住する前、千葉で描かれた作品を見ると、本来、とほうもないテクニックを持っていらしたことが画集でもわかる。


伝記を読むと、奄美では大島紬の工場の染色工として働き、得たお金で3年ほど絵に集中する生活を送り、お金がなくなると、また染色工として働くという生活だった。その際、座右にピカソの画集があった、ということで、その作品の独特な存在感の意味がぼんやりわかった気がした。


日本画は写実性と、様式、あるいは装飾性とでも言おうか、そのバランスの上に描かれた作品が多いが、田中一村の作品、特に奄美時代の傑作は、そのバランスが絶妙だと感じる。様式や装飾に傾きすぎると、描かれた自然の本来持つ力が弱くなる。写実性だけ追及しても見る者のこころを動かすことはできない。一村の作品では、他の日本画には見られない独自の様式と描写がしっかり息づいている。その奥底に、生涯を通じて実験をつづけたピカソの躍動的な生き方があったのではないだろうか。


一村は、幼いころ、水墨画で「神童」と呼ばれ、東京美術学校(現 東京藝大美術学部日本画科)に東山魁夷らと同期に入学したが、様々な事情で退学。その後、日展、院展からも無視され、ついに生涯、個展を開くこともかなわなかった。

しかし、功成り名遂げた画家が、自分の様式に固まってしまい、同じような作品を濫作することがよくある中で、田中一村の作品には、69年の人生の最晩年まで、より美しい絵を描くという気迫が感じられる。


「良い人生」「恵まれた人生」とはなんなのだろうかなあ。地位や名誉、経済的に恵まれることは悪くない。それどころか、ぼくだって、そうなれるなら今からでもそうなりたい。生きているうちに貧しさに追われ、誰にも認められない人生は、ぼくは、正直言っていやだ。


しかし田中一村の生涯と遺された作品を見ると、そこにも、ある理想的な人間の人生があると思う。


Copyright © 2021 Mitsuhiro Denda
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