top of page

News & Blog

テレビドラマの「相棒」を見ていて、水谷豊さん演じる杉下右京はシャーロック・ホームズと刑事コロンボだなあ、と思った。わずかな手がかりから核心にせまるのがホームズ流で、真犯人に心理的なゆさぶりをかけて追い詰めるのがコロンボ流。でも、ホームズにもコロンボにもモデルがいますね。ホームズのモデルはエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」のデュパン、あるいは「黄金虫」のルグランにもその気配がある。共通するのは、名探偵を観察する語り手が、どちらかといえば凡庸な人物であること。例えばホームズに対するワトソンのように。


一方のコロンボですが、御存知の方も多いでしょうが、ドストエフスキーの「罪と罰」に登場する予審判事ポルフィーリイがモデルですね。老婆を殺害した主人公、セルゲイ・ラスコーリニコフに様々な心理的揺さぶりをかけて追い詰めてゆく。あれこれ揺さぶった挙句「もう一つだけ質問させてください、ほんとうにご迷惑だと思いますが!」というセリフ(工藤精一郎訳新潮文庫)。そのまんま、コロンボ経由で杉下右京につながります。


 嵐山光三郎さん「文人悪食」(新潮文庫)によれば、「エドガー・アラン・ポー」をペンネームにした江戸川乱歩さんは、ドストエフスキーの愛読者だった。「少年探偵団」の明智小五郎は颯爽とした紳士だけど、初期の「D坂の殺人事件」のころは髪がもじゃもじゃ、貧乏書生の風情です。これが金田一耕助になったという想像はたやすいが、まさかコロンボになった、なんてことはないでしょうか?

さまざまな名画、実物に対面するに越したことはないけど、実際には海外の美術館で門外不出の作品もあり、画集やネットで見ざるを得ない場合が多い。でも、画集でよく見ていた絵の実物を見て、突然、ファンになる場合はやはりある。ぼくの場合、ルネサンス、イタリアの画家、サンドロ・ボッティッチェリがそうだった。


「ヴィーナスの誕生」「プリマヴェーラ(春)」は誰でもどこかで見たことあるでしょう。ぼくも小学生のころ小学館「美術の図鑑」か何かで見ていたと思う。小さな画面で見ると、なんだか通俗的な印象で、同時代のラファエロやフィリッポ・リッピ(ボッティッチェリの師)の方が繊細で美しい印象があった。


1997年、アッシジで開催されたシンポジウムに講演者として招待された。その後、フェイレンツェに寄って、「ヴィーナスの誕生」「プリマヴェーラ」を所蔵するウフィツィ美術館を訪ねた。びっくりした。大きいんです。「ヴィーナス」が172㎝x278㎝、「プリマヴェーラ」が203㎝x314㎝。描かれているヴィーナスやら神様やらは、等身大と思ってください。


その大きさで初めて気が付いたのだが、ボッティッチェリの絵の中には、はかなげな、すこし哀しそうな表情の女性がいる。「ヴィーナスの誕生」のヴィーナス。「プリマヴェーラ」では左から2人目の女性、三美神のお一人だそうです。「パラスとケンタウロス」のパラスもそう。女神さんなのだが、なんだか憂い顔に見える。華やかなルネサンスの時代、それもまたつかの間の夢、とでも言いたそうなまなざし。プルーストの「失われた時を求めて」で紹介される、「モーセの試練」の中央近く、井戸?の近くの女性もそうですね。


フィレンツェに君臨したメディチ家に招かれて、まずます幸福な人生を送ったように思える画家だけど、どこかで時の流れのはかなさ、栄華のむなしさも感じていたんじゃないか、と空想しています。

20世紀の終わりごろ、2,3週間に一度は神田の書店街に出かけていた。その当時、三省堂の美術書コーナーに行くたび、眺めては書架に戻していた画集がある。ポーランドの画家、ベクシンスキーの画集だった。


廃墟の中で死臭が漂うような不吉な絵、悪夢のような異形の人物画、それらに交じって、壮大な、世界の深い場所にある宇宙の秘密を描いたような作品もあった。頁を開くと、最後まで見てしまう。しかし、心の奥底を冷たい手で触られるような不気味さに、購入するのがためらわれた。


そんなことをくりかえしているうちに、ある時、その画集に「出版社閉店のため入手困難」という紙が貼られていた。おぞましい絵が多いが、それが見れなくなると困る。思い切って購入した。


画集を手に入れると、あまり見なくなる傾向が、ぼくにはあるが、ベクシンスキーの画集はよく眺めている。そのたびに、自分のこころ、何を美しいと思い、何をおぞましいとかんじるのだかわからなくなる。おぞましさの極限とでもいうべき形象は、崇高な美しさと隣り合わせではないだろうか。この世界の果てでそれらは融合しているのではないか。


少年時代、ナチスの侵攻を経験したスジスワフ・ベクシンスキーは2005年、強盗に刺殺された。

bottom of page