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しばらく前、サンフランシスコの恩師イライアス教授がぼくに「私は、日本人にはたくさん知り合いがいるけれど、君は最もwesternizedされてるねえ」と仰せであった。辞書で調べると「西洋化」です。日本、アジアに対して、いわゆる「欧米的」と言うべきか。教授は他人の悪口を言わない人で、これはほめられているのだろう。


具体的に、ぼくのどのような言動が「欧米的」なのかは、よくわかっていないのだが、ただ、そうなったきっかけだろうと思う出来事は憶えている。


留学していたイライアス研究室の重要な研究手段の一つは、電子顕微鏡による皮膚の中の微細な構造の観察だった。その部門をデビーさんという女性が担っていた。テクニシャンという身分だったけど、常時、二人以上の部下がいて、堂々たる存在だった。


あるとき、教授から「君の実験の皮膚サンプルを、デビーに頼んで電子顕微鏡写真を撮ってもらうように」と指示された。そこでデビーさんのオフィスに行った。「あのー、イライアス教授から頼まれたんですが、このサンプルの電子顕微鏡写真、撮ってください」


するとデビーさんは、じろりとぼくの顔を見て言った。「あなたはどうなの?」

「は?」「あなたは写真を撮って欲しいの?」「・・・ええ、まあ、はあ」「わたしはあなたがどうして欲しいのか聞きたいの」「・・・はい、ぼくも撮って欲しいです」「それでよろしい。最初っからそう言いなさい」。


ここでストンと理解した。日本で上司に命令され、誰かにお願いするときは、半ば習慣的に上司の名前を出す。しかし、この国、アメリカ合衆国においては「私はどう考えているのか」を表明するのが常識なのだ。


デビーさんとは、それがきっかけで親しくなり、互いにパーティーに呼んだり呼ばれたり。一昨年、ニューハンプシャーで開催された学会に招待講演を依頼されて行った時はデビーさんも来ていた。久しぶりだった。「あなたのおかげでぼくはwesternizedされましたよ」と昔ばなしをすると「あなたはわたしの本当のともだちよ」と言ってくれた。

「カラマーゾフの兄弟」は、いろんな人が「世界文学の最高峰」と言うので、気になる方は多いと思う。でも「挫折した」という友人も多い。それには理由がある。


 たとえば日本の長編小説「楡家の人びと」の三姉妹では、傲慢な長女が龍子、美貌で早世する次女が聖子、お茶目な三女が桃子です。北杜夫さんは登場人物のキャラクターをイメージさせる名前をつけている。なので、人間関係が分かりやすい。


 ところがカラマーゾフ・ブラザーズでは極道オヤジが「フョードル」、短気な長男が「ドミートリー」、無神論者の次男が「イヴァン」、敬虔な修道僧の三男が「アレクセイ」、私生児が「スメルジャコフ」。これだけでうんざりするのはまだ早い。ドミートリーの愛称がミーチャ、イヴァンの愛称がワーニャ、アレクセイの愛称がアリョーシャです。物語の中でこれらの名前が飛び交う。ぼくも最初に読んだとき、兄貴だと思っていた奴が「兄さん!」と言ったりするので混乱しました。ロシア人の名前にキャラクターを感じるなんて無理だし、そこに愛称まで出てきたら話についていけない。


 なので、読む前に、愛称も含めた「系図」をWikipediaで調べて、そのメモを傍らに読むと、かなり楽になります。そして「カラマーゾフの兄弟」もそうですが、ドストエフスキーの他の長編「罪と罰」「悪霊」も殺人事件がからむミステリーなので、話に乗ってしまえば面白く読める。ぼくの新潮文庫「カラマーゾフの兄弟」は何度も読み返してボロボロだけど、そこまで読むと、フョードル、ドミートリー、イヴァン、アレクセイ、スメルジャコフというそれぞれの名前に濃厚なキャラクターを感じるようになり、そのほかのロシア、ソビエトの小説が読みやすくなる。


ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」「灯台へ」。どちらも今は名作だと思うが、何の予備知識もなく手に取って、すいすい読める人は天才ではないか。独特のシカケがあるのです。「ダロウェイ夫人」は夫人の朝から夜までの物語。夫人を含めた登場人物の「意識の流れ」です。で、実は極端な場合、パラグラフごとに「意識の持ち主」が変わる。それが分かれば、たった1日の物語が、複数の人々、異なる場所、記憶から語られるので、奥行きと深みがある、読み応えのある作品であることがわかる。


ウィリアム・フォークナー「響きと怒り」。これも予備知識なしで読みだした最初は、なにがなにやらわからず放り出した。しかし、その第一部にもシカケがある。語り手に知的障害があって、過去30年間の出来事と、現在進行中の出来事が、ごっちゃになって語られている。しかし、それを踏まえて読むと、主人公たちの家族の歴史と現在が一気にうかびあがってくるのです。


長く読み継がれる文学にはそれなりの価値があり、読んでおくにこしたことは無いとは思う。ただ、ぼくのような頭が悪い、非文学的読者のために、たとえば文庫本の解説などに、ちょっと「読む工夫」を書いておいて欲しいとも思う。

生まれつき手先が不器用で、楽器には縁がない。でも、声変わりする前は、ボーイソプラノで、中学生の時、独唱させられたこともあり、徹底的な音痴というわけでもない。だから「なにかのはずみで20分間だけ楽器が弾けたら」と、無意味な、しかし切実な想像をしてみる。


ピアノだったらベートーヴェンのソナタ「悲愴」の第二楽章。だれでも聴けばご存知です。映画などのBGMにもよく使われている。すばらしいなあ、と思うのは辻井伸行さんの演奏。ピアノという楽器は鍵盤楽器でありながら、音の強弱を表現できるように開発された。辻井さんの演奏は、それが美しく、優しくすべき音は優しく、静かに抑える音は静かに、聴いている方が「こうなってほしい」と思うように流れる。


ヴァイオリンだったらシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章。シュロモ・ミンツさんの演奏を聴いています。ベルリンフィル。Wikipediaによれば「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」と楽譜に指示があるらしい。確かに冒頭のソロは孤独な厳しさをたたえた哀しいまでに美しいメロディーです。


チェロなら、当たり前すぎますか、ドボルザークのチェロ協奏曲1楽章。ロストロポーヴィチさんの演奏を半世紀近く聴き続けています。小澤征爾さんのボストンフィル。堂々としていて凛々しい印象。聴くと元気になる。


フルートならドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。アラン・マリオンさんの演奏、ジャン・マルティノンさん、フランス国立放送局管弦楽団。中学生の頃、北杜夫さんの小説「幽霊」に魅せられていて、そのBGMとでもいうべきこの曲も半世紀近く聴いてるなあ。


オーボエはボロディンの「イーゴリ公・ダッタン人の踊り」の一節。作曲家の名前も曲名も御存知なくともメロディーは誰でも知ってます。カラヤンさん、ベルリンフィル。ソリストのお名前がわかりません。ごめん。でも、疲れた時、イヤなことがあった時、何度も繰り返し聴く曲です。


まあでも、今、並べてみたら世界的なソリストさんばっかりで、ちょっと楽器がいじれるレベルでは、むしろ聴いているだけでいいのでしょうね。

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