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News & Blog

  • 2021年4月10日

ぼくは「カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)皮膚科学教室」の博士研究員だったのだが、当時、街中のUCSF本部は狭く、「皮膚科学教室」のイライアス教授は、街の北西の端、太平洋を臨む「退役軍人病院」の皮膚科部長を兼任していて、ぼくの職場、研究室はそちらのほうにあった。


「退役軍人病院」はアメリカ政府の「合衆国退役軍人省(略称VA)」の管轄下の施設で、かつてのアメリカ軍の勇士のためにある。全米の主要都市にあって、その街の州立大学の医学部と連携しているようだった。イライアス教授は研究施設の場所を確保することもあって、その任に就かれていたようだ。


だから、毎朝、研究室にたどり着く前に、かつての軍人さん、いまや、杖にすがったり、車いすのおじいちゃんになってる方々がいっぱいおられた。だからぼくは「大学に留学していた」というより「病院にいました」というのが率直な印象です。


でも、それが幸いしたことがあった。


留学中の1995年1月阪神淡路大震災が起きた。当時、父は滋賀にいた。ぼくの高校時代に急逝した母の実家は神戸市にあって、叔母がいた。そのほか、母方の親戚が関西に住んでいて、その安否が気になって、いてもたってもいられなくなった。父に電話しても通じない。そのほかの関西の親戚にも、おそらく回線が混みあっていたからだろうか、連絡がつかない状態だった。


研究室の事務室に行って、そのことを言うと、教授の秘書だったシャダさんが「教授の電話を使いなさい!」という。退役軍人病院は合衆国政府の機関なので、よくわからないが、ただの電話回線ではないようだった。ぼくは「でも、これは、ぼくの個人的な問題だから・・・」と言うと、シャダさんは「緊急事態でしょ!教授は今いないし大丈夫よ。さあ、電話しなさい!」と言う。あちこち電話をかけると、親戚の家につながって、父も叔母も無事だったことが確認できて安心した。


神戸市東灘区、当時、叔母が独りで住んでいた母の実家は完全倒壊していたが、叔母は無事、救出された。そのあと、電話回線はまともになった。


おちついてから改めて、シャダさんの機転が、しみじみありがたかったことを思い返した。

  • 2021年4月9日

単身で留学生活を始めて、しばらくは自炊していた。小麦粉を焦がしてルーを作り、ビーフシチューまで作ったが、一回作ると数日、そればっかりである。さすがに飽きた。


よく、海外に滞在すると「お茶漬けが食べたい」とボヤく人がいるが、ぼくは和食なしでも平気だ。ただ、アジア系の料理は恋しくなる。


ある時、アパートの郵便受けに「ナライ・レストラン開店!美味しいタイ料理をお楽しみください」というチラシが入っていた。アパートから15分ほどの場所。クレメント通りという一画があって、アジア系のレストランや食材店が並んでいた。チラシを持ってナライ・レストランへ行った。そこでグリーンカレーの美味しさにびっくりした。


タイのグリーンカレーは、今や、ウチの近所のスーパーマーケットにもレトルトが3種類ほどある。日本人の好みにあうのだろう。しかしナライの場合、絶妙なゆで加減でシャキシャキした、緑あざやかなサヤインゲンが入っていて、呆然とするぐらい美味しかった。ほかのメニューも全部、美味しい。常連さんになった。


クレメント通りの他のアジア系レストランも探訪し始めた。たとえば、ゴールデンタートルというベトナム料理屋が、しみじみ良かった。カニやエビのガーリック炒めは、たまに日本からくるお客を連れていくと絶賛された。勤務先で定年前のおじさんが、学会のついでにサンフランシスコに来たので連れて行った。おじさんはカニを夢中で食べてから「デンダ君、ぼくは引退したらサンフランシスコに住みたくなった」と真顔で言った。


サンフランシスコの街では、市の条例か何かで、チェーン店、フライドチキンやハンバーガーの店だが、それらはフィッシャーマンズワーフのような観光地にしか出店を許されていなかったらしい。つまり、ベトナム、タイ、中国などから来た、おっちゃん、おばちゃんが切り盛りする小さなレストランを街の看板として護ろうというのだ。


それ以来、自炊は止めて、クレメント通りや、その近所のアジア系レストラン、というより「食堂」という表現のほうが、ぴったりするなあ。それらを食べ歩いた。当時、円高でもあり、日本円で3~400円でおなかがいっぱいになった。


いま、カリフォルニアもコロナウイルス蔓延で大変なようだ。愛すべき小さな食堂が元気でいてほしいと思う。

  • 2021年4月8日

吉川英治さんの「三国志」を読んでいると、中国の人は「義」というモラル?を大切にしているようだ。戦の果てに裏切りもある。だまし討ちもある。しかし「義」という軸がずれない。「義」は「義理」の義で、まあ下世話に言えば世話になった、上品に表現すれば心を尽くした誠意を示された、それを忘れず重んじる道徳とでも言おうか。


留学先の研究室に夫婦で研究している中国人がいた。旦那さんはニックネームを拒否して「ドクター・マン」と呼ばれていた。研究室でも、もっとも精力的に成果をあげていた。ぼくが、単身のころ、自分の机をもらった時、横にいたのがマン博士の奥さん、ウェイニさんだった。日本の勤務先から景品用の卓上カレンダーが届いた。女優さんやモデルさんの写真が付いたありふれた代物。実験室の机の上に置いていたら、ウェイニさんが「きれいだねー」としみじみおっしゃった。「じゃ、あげますよ」と差し上げた。


あるとき、マン博士が「君は、中国料理は好きかい?」と訊く。実際にそうだったので「好きですよ」と答えた。すると彼は「私の友人がジャパンセンターの近くにレストランを開いたんだ。来てくれると嬉しい」と仰せである。ぼくは週末、ジャパンセンターの紀伊國屋書店によく出かけて、その界隈でランチをとっていた。だから、その週末、なんとなくそのレストランを訪ねた。なんとマン博士がウェイターをやってて「ああ、よく来てくれた。おーい、このお客さんにワインを一杯サービスして」と厨房に声をかけた。この段階で、あるいはこの程度のことで「義」が成立してたんです。


留学して1年後、ツレが留学生として合流した。ぼくの研究室は海辺の病院にあったが、彼女の研究室は街中の本部にあった。そこで、街中のアパートに引っ越すことにした。ところが、その交渉の際、つまらないことでもめた。困った。研究室でマン博士にボヤいたら「君、そういう時は『では、お前のアパートには入らない』と言ってやればよろしい」という。実行したらアパートの管理人がおれた。マン博士が諸葛孔明に見えた。


引っ越し業者を探した。電話帳で探して一番安い業者が$300だった。それをマン博士に言うと「とんでもない!私の友人に良い業者がいる」というので、お願いした。トラックに3人、中国人の作業員がいて、3時間かかって$100だった。ちなみに当時、円高で1$=90円未満だった。世界中でそうらしいが、中国の人たちは、それぞれの国で中国人のコミュニティーを作って助け合っているらしい。ぼくは、その一端のお世話になったわけです。


引っ越しが終わり、ツレも落ち着いた。引っ越し祝いの最初のお客さんに、お世話になったマン博士ご一家、ご夫婦と小さな娘さん二人を招いて、ささやかな食事を差し上げた。かわいい下のお嬢ちゃんは、ごくごくジュースを飲む。あとで聞いたが、普段、甘いものはあげてなかったらしい。あ、知らなかった、ごめんなさい、というとマン博士は「いや、いいんだ。でも、娘が『またデンダのお家へ行きたい』といって困ってるよ」と笑って言った。その女の子がのちに名門カリフォルニア大学バークレー校を卒業して分子生物学の研究者になるとは想像もしなかった。


マン博士は、その後何度も、自宅にぼくたちを読んで、すごくおいしい手料理をごちそうしてくれた。今は祖国中国の大学の教授になっている。

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