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単身で留学生活を始めて、しばらくは自炊していた。小麦粉を焦がしてルーを作り、ビーフシチューまで作ったが、一回作ると数日、そればっかりである。さすがに飽きた。


よく、海外に滞在すると「お茶漬けが食べたい」とボヤく人がいるが、ぼくは和食なしでも平気だ。ただ、アジア系の料理は恋しくなる。


ある時、アパートの郵便受けに「ナライ・レストラン開店!美味しいタイ料理をお楽しみください」というチラシが入っていた。アパートから15分ほどの場所。クレメント通りという一画があって、アジア系のレストランや食材店が並んでいた。チラシを持ってナライ・レストランへ行った。そこでグリーンカレーの美味しさにびっくりした。


タイのグリーンカレーは、今や、ウチの近所のスーパーマーケットにもレトルトが3種類ほどある。日本人の好みにあうのだろう。しかしナライの場合、絶妙なゆで加減でシャキシャキした、緑あざやかなサヤインゲンが入っていて、呆然とするぐらい美味しかった。ほかのメニューも全部、美味しい。常連さんになった。


クレメント通りの他のアジア系レストランも探訪し始めた。たとえば、ゴールデンタートルというベトナム料理屋が、しみじみ良かった。カニやエビのガーリック炒めは、たまに日本からくるお客を連れていくと絶賛された。勤務先で定年前のおじさんが、学会のついでにサンフランシスコに来たので連れて行った。おじさんはカニを夢中で食べてから「デンダ君、ぼくは引退したらサンフランシスコに住みたくなった」と真顔で言った。


サンフランシスコの街では、市の条例か何かで、チェーン店、フライドチキンやハンバーガーの店だが、それらはフィッシャーマンズワーフのような観光地にしか出店を許されていなかったらしい。つまり、ベトナム、タイ、中国などから来た、おっちゃん、おばちゃんが切り盛りする小さなレストランを街の看板として護ろうというのだ。


それ以来、自炊は止めて、クレメント通りや、その近所のアジア系レストラン、というより「食堂」という表現のほうが、ぴったりするなあ。それらを食べ歩いた。当時、円高でもあり、日本円で3~400円でおなかがいっぱいになった。


いま、カリフォルニアもコロナウイルス蔓延で大変なようだ。愛すべき小さな食堂が元気でいてほしいと思う。

吉川英治さんの「三国志」を読んでいると、中国の人は「義」というモラル?を大切にしているようだ。戦の果てに裏切りもある。だまし討ちもある。しかし「義」という軸がずれない。「義」は「義理」の義で、まあ下世話に言えば世話になった、上品に表現すれば心を尽くした誠意を示された、それを忘れず重んじる道徳とでも言おうか。


留学先の研究室に夫婦で研究している中国人がいた。旦那さんはニックネームを拒否して「ドクター・マン」と呼ばれていた。研究室でも、もっとも精力的に成果をあげていた。ぼくが、単身のころ、自分の机をもらった時、横にいたのがマン博士の奥さん、ウェイニさんだった。日本の勤務先から景品用の卓上カレンダーが届いた。女優さんやモデルさんの写真が付いたありふれた代物。実験室の机の上に置いていたら、ウェイニさんが「きれいだねー」としみじみおっしゃった。「じゃ、あげますよ」と差し上げた。


あるとき、マン博士が「君は、中国料理は好きかい?」と訊く。実際にそうだったので「好きですよ」と答えた。すると彼は「私の友人がジャパンセンターの近くにレストランを開いたんだ。来てくれると嬉しい」と仰せである。ぼくは週末、ジャパンセンターの紀伊國屋書店によく出かけて、その界隈でランチをとっていた。だから、その週末、なんとなくそのレストランを訪ねた。なんとマン博士がウェイターをやってて「ああ、よく来てくれた。おーい、このお客さんにワインを一杯サービスして」と厨房に声をかけた。この段階で、あるいはこの程度のことで「義」が成立してたんです。


留学して1年後、ツレが留学生として合流した。ぼくの研究室は海辺の病院にあったが、彼女の研究室は街中の本部にあった。そこで、街中のアパートに引っ越すことにした。ところが、その交渉の際、つまらないことでもめた。困った。研究室でマン博士にボヤいたら「君、そういう時は『では、お前のアパートには入らない』と言ってやればよろしい」という。実行したらアパートの管理人がおれた。マン博士が諸葛孔明に見えた。


引っ越し業者を探した。電話帳で探して一番安い業者が$300だった。それをマン博士に言うと「とんでもない!私の友人に良い業者がいる」というので、お願いした。トラックに3人、中国人の作業員がいて、3時間かかって$100だった。ちなみに当時、円高で1$=90円未満だった。世界中でそうらしいが、中国の人たちは、それぞれの国で中国人のコミュニティーを作って助け合っているらしい。ぼくは、その一端のお世話になったわけです。


引っ越しが終わり、ツレも落ち着いた。引っ越し祝いの最初のお客さんに、お世話になったマン博士ご一家、ご夫婦と小さな娘さん二人を招いて、ささやかな食事を差し上げた。かわいい下のお嬢ちゃんは、ごくごくジュースを飲む。あとで聞いたが、普段、甘いものはあげてなかったらしい。あ、知らなかった、ごめんなさい、というとマン博士は「いや、いいんだ。でも、娘が『またデンダのお家へ行きたい』といって困ってるよ」と笑って言った。その女の子がのちに名門カリフォルニア大学バークレー校を卒業して分子生物学の研究者になるとは想像もしなかった。


マン博士は、その後何度も、自宅にぼくたちを読んで、すごくおいしい手料理をごちそうしてくれた。今は祖国中国の大学の教授になっている。

「交響曲」というと、クラッシック音楽の中でも、とりわけ重厚なイメージがある。でもそれはベートーヴェン以降だと思う。


77歳まで生きたハイドンは106曲の交響曲を作曲したらしい。ぼくはほとんど知らないのだが、有名な「驚愕」や「時計」をちょっと聴くと、軽い冗談音楽に思える。35歳で早世したモーツァルトでさえ41曲の交響曲がある。ごめんなさい、ぼくは晩年の40番、41番しか知らないけど、それらはすばらしい貫禄がありますね。


「交響曲」を「作曲家が自らの精神、情念を託した巨大な存在」にしたのはベートーヴェンで、56年の生涯でご存じのように9曲しか交響曲を作曲していない。でも、それらは、それぞれ存在感が大きい。


「第9の呪い」という、よく知られた話があって、ベートーヴェン以降の作曲家は、「交響曲第9番」にたどり着く前後に死ぬという。「9番」の作曲中、あるいは作曲後、死んだのは、シューベルト、ブルックナー、ドボルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなどなど。


グスタフ・マーラーはベートーヴェンの後、交響曲という形式で、その表現の可能性、限界に挑戦していたように思う。第6番では、ムチ、カウベル、木箱か机を大人の頭ぐらいあるハンマーでぶん殴る音まで入っている。そういう試みが後世に及ぼした影響は大きいのではないか。


たとえばジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」の様々な曲は、マーラーより前の作曲家の作品を切り貼りしても似たものすらできないと思うが、マーラーの交響曲の切り貼りなら、そこそこ似た迫力の曲ができそうだ。


なにかと神経質なマーラーは「第9の呪い」が気になって、壮大な交響曲第8番の次の交響曲を「第9番」とせず「交響曲 大地の歌」にした。ははははは、俺はまだ生きてるぞ、と次の交響曲「第9番」を完成し、「第10番」にとりかかって、その完成前に死んでしまった。自ら「第9の呪い」を証明してしまった。


「第9の呪い」をふっとばしたのはショスタコーヴィチで、交響曲第15番まで完成させた。またショスタコーヴィチはマーラーに私淑していて、その表現の限界を意識的に超えたのが交響曲第4番のようにぼくには思える。もし、御存じないなら聴いてください。すごいですよ。(ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団)。現代音楽に分類されるトゥーランガリラ交響曲より、とんでもない冒険を感じる。が、時はスターリン体制下。前衛的な曲を発表するとやばい、とお蔵入りになり、代わりにバカでもスターリンでもわかる「第5番」(俗称「革命」)を発表したのではないか。この曲も、それはそれでぼくは好きですけどね。

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