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幼いころから絵が好きだった。小学校も上級になると図書館の画集を眺めていた。まず西欧の印象派からシュルレアリスムの作品に魅かれた。小学館の「美術の図鑑」には日本の洋画家の作品も載っていたが、あまり興味はなかった。


洲之内徹さんという方がいらした。銀座にあった「現代画廊」の経営の傍ら、美術評論家として随筆を遺されている。「きまぐれ美術館」というシリーズがあって、ぼくは、それを読んで日本の画家に興味を持ち始めた。それまで知らなかった長谷川利行、松田正平といった日本の画家が好きになった。


数年前、定期的に仙台に行く機会があった。洲之内さんが生前、集めていらした作品を所蔵する宮城県立美術館を、時間があるとき、何度も訪ねた。洲之内さんが戦地で複製を見て「こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる」と感動された海老原喜之助「ポアソニエール」の実物にも会えた。(「絵の中の散歩」新潮文庫)


何かを論じようとする。芸術作品とか人とか。その際、欠点を探そうとすると、その対象からは何も学べない。欠点がないものなどありえない。あら捜しの姿勢で臨むとその欠点を見つけて終わってしまう。そうではなくて、その対象の良いところ、それを探そうとして臨むと、様々なことを学べる場合が多い。一見、つまらなそうな対象でも、何か良いところ、優れたもの、を探そうとすると、むしろ初見で退屈に見える対象に意外な発見がある。なにごとに対しても、とりあえず褒めるつもりで眺めた方が自分自身、得るものが多い。洲之内徹さんの美術エッセイはその好例だと思う。


洲之内さんは大変な経験をなさっている。東京美術学校(現在の東京藝大)の建築科に進まれたが、プロレタリア運動に参加し、逮捕され拷問を受けた。同じ時期、小林多喜二がやはり拷問を受けて死んでいる。その後、活動を行わないことを条件に釈放されるが、数年後、共産主義の知識があるという理由で中国戦線に送られる。かつて、命をかけた思想、それを討伐する立場に置かれた。想像できない苦しみであったろう。


戦後、小説家として苦しい生活をすごした末、画商になり、その経験が「きまぐれ美術館」をはじめとするエッセイになった。幅広い分野の美術の話も魅力的だが、思想としても深く印象に残る文章がある。特に「帰りたい風景」(新潮文庫)の「チンピラの思想」「羊について」は広く読まれるべきだと思う。あるいは同じ本の「凝視と放心」の最後の文章が印象深い。これは、この世の地獄を経験した人にしか書けない。


「芸術というものは、生存の恐ろしさに脅え、意気沮喪した人間に救済として与えられる仮象だと、私は考える。生存に対する幻滅なしには、真の芸術への希求もない。恐怖が救済を約束する。美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない」


世の中が静かになったら、また仙台へ「洲之内コレクション」を見に行きたいと思う。

バンドです。もちろんドイツの思想家のお名前に由来するが、そのバンドの音楽はほぼ無関係です。30年以上前、メジャーデビューして1年で解散したので、いまや知る人も少ないと思うのだが、ぼくの中では鮮やかな記憶として残っている。以下、バンドはローザと書きます。


1984年の秋だったと思う。ぼくは修士課程の2年だった。修士論文のための研究実績はすでにできていた。翌年春の就職も決まっていた。就職したらやりたいこともできなくなるだろう。寂しさと空虚さが混じる日々だった。学生として残された時間、やりたいことだけやって過ごそうと思っていた。


落ち葉が散るキャンパスを歩いていたら風変わりなポスターに気が付いた。同志社大学のホールで知らないバンドのライブがある。なんだか気になった。タイトルが強烈だったが、ここに書く勇気がありません。


出かけてみた。すぐ惹きこまれた。この文章を読んでローザに興味を持った方に申し上げたいことがある。ネットで検索しても「歌詞だけ最初に読まないでください」。メジャーデビューして最初のアルバム「ぷりぷり」のLPには「歌詞は入っていません」として歌詞が記載されていなかった。わかる。歌詞だけ見ると、ただのめちゃくちゃだと誤解される危険性が高い。曲を聴きパフォーマンスを観るとその歌詞に納得する。人が既存の権威を批判すると、その人も別の「権威」になってしまう。「権威」から自由であるためには自らのめちゃくちゃを貫かねばならない。ローザにはめちゃくちゃを続ける覚悟があって、その、いかがわしさが魅力的だった。


就職した春、新入社員研修の頃だった。1985年。憂鬱な日々。確か情報誌「ぴあ」を見ていたら、ライブハウス、新宿ロフトでローザのライブがある。ローザも上京してたのです。研修を終えてスーツのまま出かけた。だから多分、音楽業界の人間だと誤解されたんだろう。リハーサル中なのに入れてもらった。素顔のメンバーがいた。ドラムの三原さんと眼があった。お辞儀された。ライブではとんでもないメイクのヴォーカル、久富隆志さん(どんと)の素顔は静かで生真面目な印象だった。


1986年、メジャーデビューされた。横浜でのライブには勤務先で親しくなった友人も連れて行った。京都に置き去りにしてきた学生時代の自分に出会えるような気がしていた。


次の年、ローザ解散。久富さんが結成したボ・ガンボスのライブにも出かけたが、申し訳ありません。ぼくはローザが好きだった。


ミレニアムの年、一緒にライブに行った友人から久富さんの早すぎる訃報を聞いた。

  • 2021年4月10日

ぼくは「カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)皮膚科学教室」の博士研究員だったのだが、当時、街中のUCSF本部は狭く、「皮膚科学教室」のイライアス教授は、街の北西の端、太平洋を臨む「退役軍人病院」の皮膚科部長を兼任していて、ぼくの職場、研究室はそちらのほうにあった。


「退役軍人病院」はアメリカ政府の「合衆国退役軍人省(略称VA)」の管轄下の施設で、かつてのアメリカ軍の勇士のためにある。全米の主要都市にあって、その街の州立大学の医学部と連携しているようだった。イライアス教授は研究施設の場所を確保することもあって、その任に就かれていたようだ。


だから、毎朝、研究室にたどり着く前に、かつての軍人さん、いまや、杖にすがったり、車いすのおじいちゃんになってる方々がいっぱいおられた。だからぼくは「大学に留学していた」というより「病院にいました」というのが率直な印象です。


でも、それが幸いしたことがあった。


留学中の1995年1月阪神淡路大震災が起きた。当時、父は滋賀にいた。ぼくの高校時代に急逝した母の実家は神戸市にあって、叔母がいた。そのほか、母方の親戚が関西に住んでいて、その安否が気になって、いてもたってもいられなくなった。父に電話しても通じない。そのほかの関西の親戚にも、おそらく回線が混みあっていたからだろうか、連絡がつかない状態だった。


研究室の事務室に行って、そのことを言うと、教授の秘書だったシャダさんが「教授の電話を使いなさい!」という。退役軍人病院は合衆国政府の機関なので、よくわからないが、ただの電話回線ではないようだった。ぼくは「でも、これは、ぼくの個人的な問題だから・・・」と言うと、シャダさんは「緊急事態でしょ!教授は今いないし大丈夫よ。さあ、電話しなさい!」と言う。あちこち電話をかけると、親戚の家につながって、父も叔母も無事だったことが確認できて安心した。


神戸市東灘区、当時、叔母が独りで住んでいた母の実家は完全倒壊していたが、叔母は無事、救出された。そのあと、電話回線はまともになった。


おちついてから改めて、シャダさんの機転が、しみじみありがたかったことを思い返した。

Copyright © 2021 Mitsuhiro Denda
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