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2003年初め、うつ病になった。この病気にかかった人の多くがそうであるように、最初は病気を隠し、かつ「気力で乗り切ろう」と思った。でも状態はどんどん悪化した。2004年3月、限界に達した。なんとか出社しても体が動かない。仕事ができないどころではなく、眼もあまり見えず、音も聴こえない。口がきけない。指も動かない。通院していた精神科医さんは「あなたに処方できる薬は最大限出しています。今、私が差し上げられる処方箋は2か月の休職です」とおっしゃった。確かに、もうそれしか考えられない状態だった。


「最初の一か月は何もしないで過ごしなさい」と言われた。いわれなくても、本は読めない。マンガすら無理。テレビも見れない。では音楽でも聴くか、とクラッシックのCDをセットしたが、それを聴く気力もない。ふと学生時代から好きだった大貫妙子さんのCDをセットした。聴けた。大貫さんの声とメロディーが好きだ。少女のような、かすかに少年のような、しかし穏やかで美しいおとなの女性の声、ひとつひとつの音がとても美しい。どれか一曲と言われたら「新しいシャツ」かな。ポップな「チャンス」「色彩都市」も良いなあ。「アヴァンチュリエール」の壮大な世界もいい。


しばらくして、ちょっと元気になったころ、EPOさんのCDも聞き始めた。EPOさんは80年代、元気系シンガーソングライターと思われていた印象があるが、いやいや、いくつもの曲に心惹かれる抒情的なフレーズがあって、それをのびのある高音で歌われるところが良い。「音楽のような風」「三番目の幸せ」など。


かなり回復してきたころ、アメリカで買ったPUFFYさんたち(と言うのは変か・・・)のCDを聴いていた。2001年に久しぶりにサンフランシスコに言ったら、ディスクショップに「PUFFY」という札までできていた。アメリカでヒットしてたそうですね。元気になりかけていた時期「これが私の生きる道」などと聴くと背中を押される気になった。


おかげで職場復帰しました。その後もウツは何度か襲ってきたけれども、身をもって知ったこと。ウツになったら休むしかない。早めに休んで、心が望む音楽を傍らに、ぼーっとするのが確実な回復へ向かう方法です。

田中一村という日本画家がいらした。ぼくが最初に作品を見たのが、いつ、どこで、だったか覚えていないが、すぐ魅かれた。十数年前、奄美大島へ行ったとき「田中一村記念美術館」を訪ね、直接作品を見て、いよいよ感動が大きくなった。有名なのは奄美大島の植物や動物を描いた作品で、植物の描写は、ちょっと見るとアンリ・ルソーに似ている気もするが、よく見ると描写の写実性が凄い。50歳で奄美に定住する前、千葉で描かれた作品を見ると、本来、とほうもないテクニックを持っていらしたことが画集でもわかる。


伝記を読むと、奄美では大島紬の工場の染色工として働き、得たお金で3年ほど絵に集中する生活を送り、お金がなくなると、また染色工として働くという生活だった。その際、座右にピカソの画集があった、ということで、その作品の独特な存在感の意味がぼんやりわかった気がした。


日本画は写実性と、様式、あるいは装飾性とでも言おうか、そのバランスの上に描かれた作品が多いが、田中一村の作品、特に奄美時代の傑作は、そのバランスが絶妙だと感じる。様式や装飾に傾きすぎると、描かれた自然の本来持つ力が弱くなる。写実性だけ追及しても見る者のこころを動かすことはできない。一村の作品では、他の日本画には見られない独自の様式と描写がしっかり息づいている。その奥底に、生涯を通じて実験をつづけたピカソの躍動的な生き方があったのではないだろうか。


一村は、幼いころ、水墨画で「神童」と呼ばれ、東京美術学校(現 東京藝大美術学部日本画科)に東山魁夷らと同期に入学したが、様々な事情で退学。その後、日展、院展からも無視され、ついに生涯、個展を開くこともかなわなかった。

しかし、功成り名遂げた画家が、自分の様式に固まってしまい、同じような作品を濫作することがよくある中で、田中一村の作品には、69年の人生の最晩年まで、より美しい絵を描くという気迫が感じられる。


「良い人生」「恵まれた人生」とはなんなのだろうかなあ。地位や名誉、経済的に恵まれることは悪くない。それどころか、ぼくだって、そうなれるなら今からでもそうなりたい。生きているうちに貧しさに追われ、誰にも認められない人生は、ぼくは、正直言っていやだ。


しかし田中一村の生涯と遺された作品を見ると、そこにも、ある理想的な人間の人生があると思う。


高校時代、英語の成績が悪く、進路指導の先生に「英語に関しては、国公立大学合格は無理」と言われたぼくだが、その十数年後、なんとアメリカに留学することになった。それについてはいろいろ理由があるけど、大学院時代の出会いが大きなきっかけだったのは確かだ。


修士課程1年のとき、ポーランドから研究室に留学生が来た。パヴェルという青年。30歳前だった。口ひげを生やし、背が高く痩せたハンサムだった。研究室には当時、博士課程3年、修士2年の先輩がいた。ランチタイムにはいっしょに近所の学生食堂に出かけた。パヴェルは日本語が全くできない。「ランチ?」「イエス」「ゴー」と誘うのはぼくの役目になった。食事しながらも、なにか話しかけねばいけないので、めちゃくちゃな英語で話しかけた。案外、会話になった。


親しくなると、いろいろ話した。びっくりすることも多かった。いきなりパヴェルは言う。「君たちはアメリカが憎いだろう?」「え?うーん、考えたこともない」「原子爆弾を落とされ、大きな都市が空襲を受けたじゃないか」「たしかにそうだけど、今の日本人の過半数はアメリカ文化に憧れてるんじゃないかなー」そういうとパヴェルは目をむいて「日本人はおかしい。ぼくたちポーランド人は侵略したドイツを今でも憎んでる!」。


キャンパスで日本共産党系の学生がビラを配っていた。パヴェルは訊く。「彼らは何者か?」「あージャパニーズ・コミュニストの関係者でしょ」。パヴェルはまた目をひん剥いて「ぼくたちはソビエトの怖さを知っている。日本人にはそれがわからないのか!」ちょうどそのころ、ポーランドでレフ・ワレサさんの「連帯」が活動を始めていたころだった。今、思えば世界史の大きな変化の時期でしたね。


パヴェルの留学生活の終わりごろ、来日した奥さんと四国旅行をしたいという。当時はネットなどないから、ぼくはガイドブックを買い、彼らが行きたい名所の一番安い民宿に電話して「えーっと、日本語できませんがハシは使えるし和食は食べられます」と予約を入れ、時刻表を見ながら計画表を作った。


パヴェルが去る時、彼は、新幹線京都駅でかたくぼくの手をにぎり「キミのおかげで楽しかった。ありがとう」と言ってくれた。


この経験で、ぼくは、受験英語はダメだが(今もそうです)、外国人とのコミュニケーションは案外、なんとかなるもんだ、と思った。その自信?があったので、後年、アメリカ留学を考えるようになった。パヴェルはぼくの恩人だ。

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