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  • 2021年8月6日

ゴードン会議、あるいはゴードン研究会議は、自然科学系の研究者なら誰でも知っているであろう国際会議だ。数学、物理、化学、生命科学、医学、さまざまな分野ごとの会議が、大体、夏、開催される。「哺乳類の皮膚バリア機能」の会議もあって、留学中、ぼくは指導してくださったイライアス教授、ファインゴールド教授から研究成果をポスター発表してみないか、と誘われた。会議は1995年の夏、ニューハンプシャーで開催された。ボストンでレンタカーを借りて、ファインゴールド教授がナビゲーター。ぼくは2時間半、会場を目指して北に向かって運転した。

参加者、男性は半ズボン、Tシャツが主流。ネクタイやジャケットを着ている人はいない。招待講演者は、それまで論文で名前をみただけの著名な研究者ばかりだった。ぼくも、そのころは若くて、感動しました。大げさに言えば映画ファンの人がカンヌ映画祭かなにかに紛れ込んで、著名な監督や女優、男優の姿を見たようなもの。


自分のポスターの前で緊張していたら、イライアス教授がワイングラスを持ってきて「まあ、一杯やってリラックスしたらいい」と仰せである。そう、午後のポスター発表の会場ではワイン飲み放題、軽食も出る。その後、夜の講演もあるので酔っぱらうわけにはいかないのだが。


一昨年の会合のスケジュールだと、朝、7:30~8:30朝食、それからコーヒーブレイクをはさんで講演。12:30からランチ。午後は16:00まで自由時間。研究者たちは個別に話し合ったり、散歩にでかけたりする。緑が多い避暑地なので気持ちいい。ただ、夜には熊が出ることもある。その後、「ワインつき」のポスター発表。18:00からディナー。19:30~21:30まで講演である。なかなか充実した内容だ。


「皮膚バリア」の会議は、ニューハンプシャーでの開催が多い。その時、最後の日のランチにはメインロブスターが丸一匹出る。これは恒例になっているらしく、会議の座長は、参加者全員分のロブスターを確保するのが大変だ、とも聞いた。


とにかく、「皮膚バリア」研究で世界のトップクラスの研究者が集まる。普通の学会だと偉い先生はどこかの会議室で偉い先生方だけの会合で忙しく、ぼくのようなチンピラが直接話す機会はない。しかしゴードン会議では有名な研究者がワイングラス片手にラフな格好でポスター会場をそぞろ歩かれる。1995年の会議の時、ぼくはバリア研究の世界の著名な研究者、ほとんどと知り合いになれた。


1996年、帰国してから、「ゴードン会議に招待される研究者になろう!」という人生目標を立てたが、あらら、1999年に招待されてしまった。その時は例外的にイタリアで開催された。日曜から始まって、ぼくの講演は水曜日だった。それまでの講演で、恩師のイライアス教授、ファインゴールド教授が「水曜日のデンダの講演を聴け」と何度も宣伝してくださり、本番は拍手に包まれた。終わってからも、いろんな研究者が列になって話を聴きにきた。人生最良の日。

2019年会議のサイト;

京都に6年間住んでいた。私設の学生寮だった。風呂なし。トイレ共用。2階の6畳部屋。窓から如意ケ嶽(大文字山)がすぐ近くに見えた。送り火の夜は周囲の道に観光客があふれていた。ちょっと優越感を抱きました。


あるいは、朝、「おぉおおー」という声で目が覚めるときがあった。窓の下の道をお坊さんの集団が声をあげながら足早に歩いていた。あれはどこの宗派の人たちだったか。そのお坊さん集団が吉田神社の参道で休憩されていたのも記憶している。


近所に銀閣寺があったが、6年間一度も行かなかった。拝観料をとられる場所には行きたくなかった。望めば家庭教師のアルバイトはあったのだが、しばらく務めて嫌になった。その後は親の仕送りだけで生活していた。週末や夏休みも、勉強するか本を読むか。それに飽きると、歩いていた。お金もないし、つきあってくれる女性もいない。しかし今、思い返すと、こころは満ち足りた生活だった。


銀閣寺のわきから如意ケ嶽に登って、京都の街を見下ろして、それから比叡平を経て大津まで歩く。勢いあまって卒業した高校まで歩くこともあった。京阪電車で蹴上にもどって琵琶湖疎水を見てから「哲学の道」を歩いて戻る。ギリシャ哲学の研究者田中美知太郎博士とすれ違ったことがある。「哲学の道」は名前だけじゃありません。


数えきれないぐらい歩いたのが、学生寮からひたすら北へ向かう道。一乗寺から松ヶ崎を経て貴船、鞍馬まで歩く。帰りは叡電で出町柳へ戻る。四季折々の景色があったが、印象的だったのが桜の季節。松ヶ崎の白川疎水あたりだったか、水面や道を花びらが覆って、夢の中の世界のようだった。


ちょっとした散歩では、近所の真如堂によく出かけた。新緑の季節には樹々の葉が光に透けてみずみずしく、秋の紅葉は燃えるようにはなやかだった。銭湯の帰りに夕日を観にいった。鐘撞堂から西山にむかって街が広がって見えた。山に陽が沈むのを見届けた。


その後、横浜に住み、サンフランシスコにも住んだ。それぞれの場所でも歩いていたが、京都の、あまり人が知らない場所を、独りで歩いていた記憶が、今も緻密な色と風の感覚といっしょに残っている。

滋賀県立膳所高校には、今、思えばすばらしい先生方がいらした。その後、大学を卒業し、アメリカに留学したぼくだが、高校時代の3人の先生は忘れがたい。


まず生物の谷元峰男先生。厳しい怖い先生として恐れられていたが、ぼくには妙にやさしかった。授業中、ぼくは長距離通学、父子家庭生活に疲れて居眠りした。ふと気が付いて顔をあげたら先生がじっとぼくを見下ろしておられた。何もおっしゃらなかった。授業でカエルを解剖した。その中で目玉にATP溶液を滴下して瞳孔が開くことを確認する実験があった。ATPが「生物のエネルギー源」だけではなく、情報伝達物質であることが知られるようになったのは、それから20年後、1990年代以降のことだ。また、かつて拙著に書いた「琵琶湖は周囲の河川から水を取り込み、瀬田川から水を放出し、その形を保っている。琵琶湖は生物であるか否か論ぜよ」という先生の期末テストの問題はずっと忘れられないし、今に至るまで「生命とは何か」というぼくの疑問、その原点になっている。


美術の岡野靖夫先生は、日展で特選にも選ばれたプロフェッショナルな油彩画家だった。授業でもシュルレアリスムの油彩の課題が出た。学業に優れた秀才が四苦八苦する一方で、ぼくは楽しくてたまらず、いろんなイメージでキャンバスを埋め尽くした。先生は「君は、ほんまに次から次へといろんなこと、思いつくなあ」と感心された。人物画を描くと「ええ色だすなあ」と褒められ、油彩画は描くたびに最高点をいただいた。あるいは自由課題で、ぼくはマックス・エルンストのコラージュの真似をした鉛筆画連作を描いた。先生は「これ、誰が描いたん!?」と驚かれた。調子にのってぼくは「美術系大学に進学したい」と申しあげたのだが、先生の顔はにわかに厳しくなり「キミの才能は高校生としては優れている。せやけど一般的には平凡や。やめとき」とおっしゃった。その後、就職先でデザイナーの方々と友人になれたが、先生の言葉が正しかった、と思う。


3年生の担任、化学の三輪敏子先生は人生の恩人だ。進路決定で悩んでいた。第一志望、自分でもギリギリだと思っていた。ランクを下げるべきか否か。だけど先生は毅然として「あなたは合格します」と言って下さった。実際そうなった。6年が過ぎて、京都を去ることになった。先生から「私のようなおばあちゃんで悪いけどデートしましょう」と言われ、三条の喫茶店で昔ばなしがはずんだ。先生は「あなたは、女の人にモテるでしょう」とおっしゃる。「いやー、ぜんぜんダメですね」と言ったら、先生は「あなたのことを大切に思う女性は必ずいますよ」とおっしゃった。


若い時代の出会いは、その後の人生に大きな意味をもたらしますね。

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