top of page

News & Blog

バンドです。もちろんドイツの思想家のお名前に由来するが、そのバンドの音楽はほぼ無関係です。30年以上前、メジャーデビューして1年で解散したので、いまや知る人も少ないと思うのだが、ぼくの中では鮮やかな記憶として残っている。以下、バンドはローザと書きます。


1984年の秋だったと思う。ぼくは修士課程の2年だった。修士論文のための研究実績はすでにできていた。翌年春の就職も決まっていた。就職したらやりたいこともできなくなるだろう。寂しさと空虚さが混じる日々だった。学生として残された時間、やりたいことだけやって過ごそうと思っていた。


落ち葉が散るキャンパスを歩いていたら風変わりなポスターに気が付いた。同志社大学のホールで知らないバンドのライブがある。なんだか気になった。タイトルが強烈だったが、ここに書く勇気がありません。


出かけてみた。すぐ惹きこまれた。この文章を読んでローザに興味を持った方に申し上げたいことがある。ネットで検索しても「歌詞だけ最初に読まないでください」。メジャーデビューして最初のアルバム「ぷりぷり」のLPには「歌詞は入っていません」として歌詞が記載されていなかった。わかる。歌詞だけ見ると、ただのめちゃくちゃだと誤解される危険性が高い。曲を聴きパフォーマンスを観るとその歌詞に納得する。人が既存の権威を批判すると、その人も別の「権威」になってしまう。「権威」から自由であるためには自らのめちゃくちゃを貫かねばならない。ローザにはめちゃくちゃを続ける覚悟があって、その、いかがわしさが魅力的だった。


就職した春、新入社員研修の頃だった。1985年。憂鬱な日々。確か情報誌「ぴあ」を見ていたら、ライブハウス、新宿ロフトでローザのライブがある。ローザも上京してたのです。研修を終えてスーツのまま出かけた。だから多分、音楽業界の人間だと誤解されたんだろう。リハーサル中なのに入れてもらった。素顔のメンバーがいた。ドラムの三原さんと眼があった。お辞儀された。ライブではとんでもないメイクのヴォーカル、久富隆志さん(どんと)の素顔は静かで生真面目な印象だった。


1986年、メジャーデビューされた。横浜でのライブには勤務先で親しくなった友人も連れて行った。京都に置き去りにしてきた学生時代の自分に出会えるような気がしていた。


次の年、ローザ解散。久富さんが結成したボ・ガンボスのライブにも出かけたが、申し訳ありません。ぼくはローザが好きだった。


ミレニアムの年、一緒にライブに行った友人から久富さんの早すぎる訃報を聞いた。

ぼくは「カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)皮膚科学教室」の博士研究員だったのだが、当時、街中のUCSF本部は狭く、「皮膚科学教室」のイライアス教授は、街の北西の端、太平洋を臨む「退役軍人病院」の皮膚科部長を兼任していて、ぼくの職場、研究室はそちらのほうにあった。


「退役軍人病院」はアメリカ政府の「合衆国退役軍人省(略称VA)」の管轄下の施設で、かつてのアメリカ軍の勇士のためにある。全米の主要都市にあって、その街の州立大学の医学部と連携しているようだった。イライアス教授は研究施設の場所を確保することもあって、その任に就かれていたようだ。


だから、毎朝、研究室にたどり着く前に、かつての軍人さん、いまや、杖にすがったり、車いすのおじいちゃんになってる方々がいっぱいおられた。だからぼくは「大学に留学していた」というより「病院にいました」というのが率直な印象です。


でも、それが幸いしたことがあった。


留学中の1995年1月阪神淡路大震災が起きた。当時、父は滋賀にいた。ぼくの高校時代に急逝した母の実家は神戸市にあって、叔母がいた。そのほか、母方の親戚が関西に住んでいて、その安否が気になって、いてもたってもいられなくなった。父に電話しても通じない。そのほかの関西の親戚にも、おそらく回線が混みあっていたからだろうか、連絡がつかない状態だった。


研究室の事務室に行って、そのことを言うと、教授の秘書だったシャダさんが「教授の電話を使いなさい!」という。退役軍人病院は合衆国政府の機関なので、よくわからないが、ただの電話回線ではないようだった。ぼくは「でも、これは、ぼくの個人的な問題だから・・・」と言うと、シャダさんは「緊急事態でしょ!教授は今いないし大丈夫よ。さあ、電話しなさい!」と言う。あちこち電話をかけると、親戚の家につながって、父も叔母も無事だったことが確認できて安心した。


神戸市東灘区、当時、叔母が独りで住んでいた母の実家は完全倒壊していたが、叔母は無事、救出された。そのあと、電話回線はまともになった。


おちついてから改めて、シャダさんの機転が、しみじみありがたかったことを思い返した。

単身で留学生活を始めて、しばらくは自炊していた。小麦粉を焦がしてルーを作り、ビーフシチューまで作ったが、一回作ると数日、そればっかりである。さすがに飽きた。


よく、海外に滞在すると「お茶漬けが食べたい」とボヤく人がいるが、ぼくは和食なしでも平気だ。ただ、アジア系の料理は恋しくなる。


ある時、アパートの郵便受けに「ナライ・レストラン開店!美味しいタイ料理をお楽しみください」というチラシが入っていた。アパートから15分ほどの場所。クレメント通りという一画があって、アジア系のレストランや食材店が並んでいた。チラシを持ってナライ・レストランへ行った。そこでグリーンカレーの美味しさにびっくりした。


タイのグリーンカレーは、今や、ウチの近所のスーパーマーケットにもレトルトが3種類ほどある。日本人の好みにあうのだろう。しかしナライの場合、絶妙なゆで加減でシャキシャキした、緑あざやかなサヤインゲンが入っていて、呆然とするぐらい美味しかった。ほかのメニューも全部、美味しい。常連さんになった。


クレメント通りの他のアジア系レストランも探訪し始めた。たとえば、ゴールデンタートルというベトナム料理屋が、しみじみ良かった。カニやエビのガーリック炒めは、たまに日本からくるお客を連れていくと絶賛された。勤務先で定年前のおじさんが、学会のついでにサンフランシスコに来たので連れて行った。おじさんはカニを夢中で食べてから「デンダ君、ぼくは引退したらサンフランシスコに住みたくなった」と真顔で言った。


サンフランシスコの街では、市の条例か何かで、チェーン店、フライドチキンやハンバーガーの店だが、それらはフィッシャーマンズワーフのような観光地にしか出店を許されていなかったらしい。つまり、ベトナム、タイ、中国などから来た、おっちゃん、おばちゃんが切り盛りする小さなレストランを街の看板として護ろうというのだ。


それ以来、自炊は止めて、クレメント通りや、その近所のアジア系レストラン、というより「食堂」という表現のほうが、ぴったりするなあ。それらを食べ歩いた。当時、円高でもあり、日本円で3~400円でおなかがいっぱいになった。


いま、カリフォルニアもコロナウイルス蔓延で大変なようだ。愛すべき小さな食堂が元気でいてほしいと思う。

bottom of page