吉川英治さんの「三国志」を読んでいると、中国の人は「義」というモラル?を大切にしているようだ。戦の果てに裏切りもある。だまし討ちもある。しかし「義」という軸がずれない。「義」は「義理」の義で、まあ下世話に言えば世話になった、上品に表現すれば心を尽くした誠意を示された、それを忘れず重んじる道徳とでも言おうか。
留学先の研究室に夫婦で研究している中国人がいた。旦那さんはニックネームを拒否して「ドクター・マン」と呼ばれていた。研究室でも、もっとも精力的に成果をあげていた。ぼくが、単身のころ、自分の机をもらった時、横にいたのがマン博士の奥さん、ウェイニさんだった。日本の勤務先から景品用の卓上カレンダーが届いた。女優さんやモデルさんの写真が付いたありふれた代物。実験室の机の上に置いていたら、ウェイニさんが「きれいだねー」としみじみおっしゃった。「じゃ、あげますよ」と差し上げた。
あるとき、マン博士が「君は、中国料理は好きかい?」と訊く。実際にそうだったので「好きですよ」と答えた。すると彼は「私の友人がジャパンセンターの近くにレストランを開いたんだ。来てくれると嬉しい」と仰せである。ぼくは週末、ジャパンセンターの紀伊國屋書店によく出かけて、その界隈でランチをとっていた。だから、その週末、なんとなくそのレストランを訪ねた。なんとマン博士がウェイターをやってて「ああ、よく来てくれた。おーい、このお客さんにワインを一杯サービスして」と厨房に声をかけた。この段階で、あるいはこの程度のことで「義」が成立してたんです。
留学して1年後、ツレが留学生として合流した。ぼくの研究室は海辺の病院にあったが、彼女の研究室は街中の本部にあった。そこで、街中のアパートに引っ越すことにした。ところが、その交渉の際、つまらないことでもめた。困った。研究室でマン博士にボヤいたら「君、そういう時は『では、お前のアパートには入らない』と言ってやればよろしい」という。実行したらアパートの管理人がおれた。マン博士が諸葛孔明に見えた。
引っ越し業者を探した。電話帳で探して一番安い業者が$300だった。それをマン博士に言うと「とんでもない!私の友人に良い業者がいる」というので、お願いした。トラックに3人、中国人の作業員がいて、3時間かかって$100だった。ちなみに当時、円高で1$=90円未満だった。世界中でそうらしいが、中国の人たちは、それぞれの国で中国人のコミュニティーを作って助け合っているらしい。ぼくは、その一端のお世話になったわけです。
引っ越しが終わり、ツレも落ち着いた。引っ越し祝いの最初のお客さんに、お世話になったマン博士ご一家、ご夫婦と小さな娘さん二人を招いて、ささやかな食事を差し上げた。かわいい下のお嬢ちゃんは、ごくごくジュースを飲む。あとで聞いたが、普段、甘いものはあげてなかったらしい。あ、知らなかった、ごめんなさい、というとマン博士は「いや、いいんだ。でも、娘が『またデンダのお家へ行きたい』といって困ってるよ」と笑って言った。その女の子がのちに名門カリフォルニア大学バークレー校を卒業して分子生物学の研究者になるとは想像もしなかった。
マン博士は、その後何度も、自宅にぼくたちを読んで、すごくおいしい手料理をごちそうしてくれた。今は祖国中国の大学の教授になっている。