top of page

News & Blog

1980年代はぼくの20代だ。今、振り返ってもいやな時代だった。世間も自分も。


「ネクラ」という言葉が流行っていた。起源や定義はわからない。ぼくの経験から述べれば、思弁的な態度、つまり自分や世界についてじっくり考えようとする、それが「暗い」と否定的に判断された。自分が暗かろうが明るかろうが光っていようが影にいようが、他人の言動を気にする必要はないのだけれども、1980年代には、「ネクラ」と判断されると実害がある、自分の立場などに不利を生ずる、そんなシステムが「ネクラ」という言葉から築き上げられていたように思う。そういうぼくはもちろん「暗い奴」であった。そう言われて不快であったし、不利益を被ったこともあったと思う。


ぼくが在籍していた大学は、過去に著名な哲学者もいらして、思弁的な学校だったと思うのだが、ぼくは工学部にいた。テクノロジーにも哲学や思想は必要だと思うのだが、なんとも退屈な場所だった。尊敬できる先生や仲の良い同級生はいたけれども。


高校時代からぼくは哲学書や思弁的な小説を読んでいたが、その感想を語れる人は少なかった。ふと、それを口にすると「暗い奴」と嘲笑された。京都という街で過ごす学生生活は楽しかったけれども、大学の中での思い出はあまり楽しいものではない。卒業して就職したメーカーで宣伝制作に関わる人々、デザイナー、コピーライター、写真家、心理学者といった職業の友人と出会った。彼らとは芸術や哲学について語り合えた。そこでやっと孤独から抜け出せた気がする。


あの時代、なぜ思弁的な人間を排除する風潮があったのか、その社会学的な理由はぼくにはわからない。ただ、ぼくは、その時期、短い期間だったが、権力で人を管理しようとする人間の下にいたことがある。それはぼくを「暗い奴」と蔑んだが、その経験から想像できることは、暗くない人間、ものごとを自分自身で入念に考えない人間は、とても管理しやすいのだ。一方で、権力者にとって「暗い奴」は、いつ自分に背くかもしれない、やっかいな存在なのだ。だから、権力者は、権力のありようについて考える人間に「暗い・ネガティブな人間性」という烙印を押し排除しようとするのだ。


80年代はバブル経済の勃興と破綻で終わった。今、ふりかえれば、それこそ「暗い」時代ではなかったか。すくなくともぼくにとっては暗い憂鬱な時代だった。

  • 2021年6月28日

サンフランシスコの南、カーメル市で皮膚科学の学会があった。研究室のメンバーがほぼ全員参加した。その後、日ごろから親しかった仲間たちと海辺でキャンプすることになった。


キャンプ地ではまずバーベキューを楽しむ。ぼくだけが自分の車で来ていたので、米・独・仏・シリアの仲間が乗り込んで、材料を買いに出た。大変なことになった。


ドイツ人・ウーリヒ君が偏食で「海を泳ぐもの、羽の生えたものは食べられない」という。シリア人・モハメッド君には、もちろん豚が御法度である。で、メンバーでスーパーマーケットに出向く。肉は必然的に牛か羊になる。美味しそうな鳥のモモ肉があってもウーリヒ君が拒否する。脂がのって鮮やかな色合いの分厚い鮭も素通りする。でっかいソーセージが魅力的だったが、よく見ると素材がブタ肉である。あれもだめ、これはイヤだで大騒ぎしながらやっと買い物を済ませ、車に戻る。


フランス人・エメリさんが気づいた。「バーベキューの炭、だれか持ってきた?」。全員忘れていた。ぼくも含めて計画性がないグループであった。みんな研究者だろ、おい。今ならスマホで検索だろうが、当時(1994年頃)には、そんなものない。あてどなく、ぼくが運転していると、メンバーが「あ、今の店、炭売ってるんじゃない?」という。慌ててUターンして店に入る。これを何度か繰り返してやっと炭を確保した。


はあ、これで後はキャンプ地へ行けばいいのだ、と安堵しているとアメリカ人・ナンシーさんが言う。「ライター持ってる人、いる?」。全員、喫煙者ではない。日本のキャンプ地なら管理施設で着火器具ぐらい貸してくれそうだが、アメリカでは期待しないほうが良い。今度はたかがライターを求めてさまよう。正確に言うと、ハンドルを握るぼくが、あれこれ指図するメンバーに従って右折左折Uターンを繰り返す。渡米前はペーパードライバーだったぼくである。運転は苦手だ。ほとんどキレかかっていた。


あたりが暗くなってやっとたどり着いた海辺のキャンプ場。テントを立てたら、そのままぶっ倒れた。元気なメンバーが夜の海へ出て「夜光虫がいっぱいいて波が青く光ってる!すごいよー」と言ってくれたが、起き上がる気がしない。


次の日は、メンバーのツレたちが合流し、カヤックを楽しんだ。やっと平常にもどったぼくは、大変だったけど、そのうち良い思い出になるんだろうなあ、とパドルを動かしていた。

留学中、研究室の友達とは、もっぱら各自の家でパーティーを開いたり、招かれたりで、わいわい騒いでいた。ぼくたちのアパートでも何度か開いた。牛のシャブシャブをよく提供していた。サンフランシスコの普通のスーパーマーケットでは、薄くても1㎝以上の牛肉しか置いていない。そこでジャパンセンターの食料品店に行く。需要があったんでしょうね。シャブシャブ用の薄切り牛とタレが常備されていた。ステーキとシチュー、ローストビーフだけが牛肉の楽しみ方ではないのだよ。


ドイツから来たパトリシアさん、ウーリヒ君のアパートでは目の前で製麺機を使ったパスタを御馳走してもらった。ドイツ南部出身のウーリヒ君は「美味しいものが食べたくなると車でイタリアまで行っちゃうんだ」という。ドイツ料理もそれなりに美味いと思うのですが。


パリから来たエメリさん、オリビエ君のパーティーでは様々なしゃれたお惣菜をいただいた。食器もおしゃれだった。彼らがいよいよパリに戻る前のパーティーで、サラダを入れた白い器が素敵だった。「いいねー」と言ったら「もう要らないからあげるよ」。今はウチの食器棚にいます。


台湾から来たジャニスさん、シシ君の場合、水餃子パーティーでした。餃子の皮から作る。皮を自作すると美味しい水餃子ができるが、自分一人で皮を作ると家族の分だけで悪夢になります。で、ジャニスさんちの台所には皮の素、強力粉を練ったドウがある。中身も用意されている。招待客は各自、ドウをちぎってのばし中身を詰め、大鍋に沸かした湯に放り込んで食べる。


ぼくがいた研究室は太平洋を臨む岸壁の上にあった。野外パーティーに最適な草原があって、研究室メンバーのランチパーティーはそこで開催された。基本はポットラック。各自が食べ物を持ち寄って分け合って食べる。研究室には20人近いメンバーがいた。あるパーティーの時、親分のイライアス教授が「サラダは私が用意しよう」と宣言した。


当日、教授はでっかいポリバケツを持ってきた。「ちゃんと洗ってある」と仰せである。開けるとレタスやらなんやら野菜が詰まっている。「では、作るぞ」と言って、教授は塩と酢とオリーブオイルをたらし、医療用のゴム手袋でぐしゃぐしゃ混ぜた。全員分のサラダができた。意外に美味しかったです。


これ、一回やってみたいのだが、帰国後、大人数のパーティーを開催する機会がないのが残念だ。

Copyright © 2021 Mitsuhiro Denda
bottom of page