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留学中、研究室の友達とは、もっぱら各自の家でパーティーを開いたり、招かれたりで、わいわい騒いでいた。ぼくたちのアパートでも何度か開いた。牛のシャブシャブをよく提供していた。サンフランシスコの普通のスーパーマーケットでは、薄くても1㎝以上の牛肉しか置いていない。そこでジャパンセンターの食料品店に行く。需要があったんでしょうね。シャブシャブ用の薄切り牛とタレが常備されていた。ステーキとシチュー、ローストビーフだけが牛肉の楽しみ方ではないのだよ。


ドイツから来たパトリシアさん、ウーリヒ君のアパートでは目の前で製麺機を使ったパスタを御馳走してもらった。ドイツ南部出身のウーリヒ君は「美味しいものが食べたくなると車でイタリアまで行っちゃうんだ」という。ドイツ料理もそれなりに美味いと思うのですが。


パリから来たエメリさん、オリビエ君のパーティーでは様々なしゃれたお惣菜をいただいた。食器もおしゃれだった。彼らがいよいよパリに戻る前のパーティーで、サラダを入れた白い器が素敵だった。「いいねー」と言ったら「もう要らないからあげるよ」。今はウチの食器棚にいます。


台湾から来たジャニスさん、シシ君の場合、水餃子パーティーでした。餃子の皮から作る。皮を自作すると美味しい水餃子ができるが、自分一人で皮を作ると家族の分だけで悪夢になります。で、ジャニスさんちの台所には皮の素、強力粉を練ったドウがある。中身も用意されている。招待客は各自、ドウをちぎってのばし中身を詰め、大鍋に沸かした湯に放り込んで食べる。


ぼくがいた研究室は太平洋を臨む岸壁の上にあった。野外パーティーに最適な草原があって、研究室メンバーのランチパーティーはそこで開催された。基本はポットラック。各自が食べ物を持ち寄って分け合って食べる。研究室には20人近いメンバーがいた。あるパーティーの時、親分のイライアス教授が「サラダは私が用意しよう」と宣言した。


当日、教授はでっかいポリバケツを持ってきた。「ちゃんと洗ってある」と仰せである。開けるとレタスやらなんやら野菜が詰まっている。「では、作るぞ」と言って、教授は塩と酢とオリーブオイルをたらし、医療用のゴム手袋でぐしゃぐしゃ混ぜた。全員分のサラダができた。意外に美味しかったです。


これ、一回やってみたいのだが、帰国後、大人数のパーティーを開催する機会がないのが残念だ。

まだ午前中だったと思うから、週末、朝の実験を終えて車で帰宅途中だったと思う。前が混んできたので、停車してたら、ずん!と後ろから衝撃が来た。何が起きたかわからなかった。我に返ってエンジンを止めてハザードランプを点滅させて車の外にでる。後ろにまわって驚いた。後部がぐしゃぐしゃになっていた。


数メートル後ろに、前の部分が潰れたヴァンがいた。あ、あいつに追突されたのだ、やっと気がついた。ただちに考えはじめた。ここはアメリカである。車の追突事故ぐらいでお巡りさんも来なければ保険会社も相手にしてくれない。まず現場で交渉して、その後、保険会社に連絡する。こっちが停車中に追突された。100%あっちの責任だ。それを認めさせねばいけない。よぉーし、やるぞ、と気合をいれた。


が、ヴァンから降りてきた相手を見て狼狽した。でかい若いにいちゃんである。レスラーのような体格でTシャツに野球帽をかぶっている。二の腕にはイレズミもある。うわわわわ、どうしよう。


が、話しかけてきた彼はおとなしかった。「ごめん、追突しちゃった。大丈夫ですか?」と頭を下げる。その時、気づいたのだが、彼のシャツには「風の谷のナウシカ」がプリントされていた。運転免許証や電話番号を確認するため、彼のヴァンに行くと「うわー、ボクのガンダムが壊れちゃった」と嘆く。見ると座席の前に、あれこれプラモデルが散らかっていた。


幸い相手が非を認めたので、すかさずぼくは「この事故は私の過失です」とメモ帳を破って書き、署名をさせた。その後、自分の車に戻ったら、壊れた後部が一部、垂れ下がって地面についている。アパートまではまだ数百メートルある。「何か切るもの、持ってない?」と聞くと「ツメキリならあるよ」とヴァンに戻ってごそごそやる。差し出したツメキリには「鉄腕アトム」が描かれていました。


アパートに戻って保険会社に電話していきさつ、相手の電話番号などを伝える。署名つきのメモもファックスした。やーれやれ、これで一段落。


夕方、電話がかかってきた。ナウシカ・ガンダム・アトムのにいちゃんである。「あのー、もう保険会社に連絡しちゃった?」という。「うん、連絡した。君のメモも送ったよ。後は保険会社に任せよう」と答えたら。「・・・ああ、そう・・・」と言って切れた。


その後、彼はまだ日本のアニメーションを見てるだろうか。

幼いころから絵が好きだった。小学校も上級になると図書館の画集を眺めていた。まず西欧の印象派からシュルレアリスムの作品に魅かれた。小学館の「美術の図鑑」には日本の洋画家の作品も載っていたが、あまり興味はなかった。


洲之内徹さんという方がいらした。銀座にあった「現代画廊」の経営の傍ら、美術評論家として随筆を遺されている。「きまぐれ美術館」というシリーズがあって、ぼくは、それを読んで日本の画家に興味を持ち始めた。それまで知らなかった長谷川利行、松田正平といった日本の画家が好きになった。


数年前、定期的に仙台に行く機会があった。洲之内さんが生前、集めていらした作品を所蔵する宮城県立美術館を、時間があるとき、何度も訪ねた。洲之内さんが戦地で複製を見て「こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる」と感動された海老原喜之助「ポアソニエール」の実物にも会えた。(「絵の中の散歩」新潮文庫)


何かを論じようとする。芸術作品とか人とか。その際、欠点を探そうとすると、その対象からは何も学べない。欠点がないものなどありえない。あら捜しの姿勢で臨むとその欠点を見つけて終わってしまう。そうではなくて、その対象の良いところ、それを探そうとして臨むと、様々なことを学べる場合が多い。一見、つまらなそうな対象でも、何か良いところ、優れたもの、を探そうとすると、むしろ初見で退屈に見える対象に意外な発見がある。なにごとに対しても、とりあえず褒めるつもりで眺めた方が自分自身、得るものが多い。洲之内徹さんの美術エッセイはその好例だと思う。


洲之内さんは大変な経験をなさっている。東京美術学校(現在の東京藝大)の建築科に進まれたが、プロレタリア運動に参加し、逮捕され拷問を受けた。同じ時期、小林多喜二がやはり拷問を受けて死んでいる。その後、活動を行わないことを条件に釈放されるが、数年後、共産主義の知識があるという理由で中国戦線に送られる。かつて、命をかけた思想、それを討伐する立場に置かれた。想像できない苦しみであったろう。


戦後、小説家として苦しい生活をすごした末、画商になり、その経験が「きまぐれ美術館」をはじめとするエッセイになった。幅広い分野の美術の話も魅力的だが、思想としても深く印象に残る文章がある。特に「帰りたい風景」(新潮文庫)の「チンピラの思想」「羊について」は広く読まれるべきだと思う。あるいは同じ本の「凝視と放心」の最後の文章が印象深い。これは、この世の地獄を経験した人にしか書けない。


「芸術というものは、生存の恐ろしさに脅え、意気沮喪した人間に救済として与えられる仮象だと、私は考える。生存に対する幻滅なしには、真の芸術への希求もない。恐怖が救済を約束する。美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない」


世の中が静かになったら、また仙台へ「洲之内コレクション」を見に行きたいと思う。

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