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滋賀県立膳所高校には、今、思えばすばらしい先生方がいらした。その後、大学を卒業し、アメリカに留学したぼくだが、高校時代の3人の先生は忘れがたい。


まず生物の谷元峰男先生。厳しい怖い先生として恐れられていたが、ぼくには妙にやさしかった。授業中、ぼくは長距離通学、父子家庭生活に疲れて居眠りした。ふと気が付いて顔をあげたら先生がじっとぼくを見下ろしておられた。何もおっしゃらなかった。授業でカエルを解剖した。その中で目玉にATP溶液を滴下して瞳孔が開くことを確認する実験があった。ATPが「生物のエネルギー源」だけではなく、情報伝達物質であることが知られるようになったのは、それから20年後、1990年代以降のことだ。また、かつて拙著に書いた「琵琶湖は周囲の河川から水を取り込み、瀬田川から水を放出し、その形を保っている。琵琶湖は生物であるか否か論ぜよ」という先生の期末テストの問題はずっと忘れられないし、今に至るまで「生命とは何か」というぼくの疑問、その原点になっている。


美術の岡野靖夫先生は、日展で特選にも選ばれたプロフェッショナルな油彩画家だった。授業でもシュルレアリスムの油彩の課題が出た。学業に優れた秀才が四苦八苦する一方で、ぼくは楽しくてたまらず、いろんなイメージでキャンバスを埋め尽くした。先生は「君は、ほんまに次から次へといろんなこと、思いつくなあ」と感心された。人物画を描くと「ええ色だすなあ」と褒められ、油彩画は描くたびに最高点をいただいた。あるいは自由課題で、ぼくはマックス・エルンストのコラージュの真似をした鉛筆画連作を描いた。先生は「これ、誰が描いたん!?」と驚かれた。調子にのってぼくは「美術系大学に進学したい」と申しあげたのだが、先生の顔はにわかに厳しくなり「キミの才能は高校生としては優れている。せやけど一般的には平凡や。やめとき」とおっしゃった。その後、就職先でデザイナーの方々と友人になれたが、先生の言葉が正しかった、と思う。


3年生の担任、化学の三輪敏子先生は人生の恩人だ。進路決定で悩んでいた。第一志望、自分でもギリギリだと思っていた。ランクを下げるべきか否か。だけど先生は毅然として「あなたは合格します」と言って下さった。実際そうなった。6年が過ぎて、京都を去ることになった。先生から「私のようなおばあちゃんで悪いけどデートしましょう」と言われ、三条の喫茶店で昔ばなしがはずんだ。先生は「あなたは、女の人にモテるでしょう」とおっしゃる。「いやー、ぜんぜんダメですね」と言ったら、先生は「あなたのことを大切に思う女性は必ずいますよ」とおっしゃった。


若い時代の出会いは、その後の人生に大きな意味をもたらしますね。

1980年代はぼくの20代だ。今、振り返ってもいやな時代だった。世間も自分も。


「ネクラ」という言葉が流行っていた。起源や定義はわからない。ぼくの経験から述べれば、思弁的な態度、つまり自分や世界についてじっくり考えようとする、それが「暗い」と否定的に判断された。自分が暗かろうが明るかろうが光っていようが影にいようが、他人の言動を気にする必要はないのだけれども、1980年代には、「ネクラ」と判断されると実害がある、自分の立場などに不利を生ずる、そんなシステムが「ネクラ」という言葉から築き上げられていたように思う。そういうぼくはもちろん「暗い奴」であった。そう言われて不快であったし、不利益を被ったこともあったと思う。


ぼくが在籍していた大学は、過去に著名な哲学者もいらして、思弁的な学校だったと思うのだが、ぼくは工学部にいた。テクノロジーにも哲学や思想は必要だと思うのだが、なんとも退屈な場所だった。尊敬できる先生や仲の良い同級生はいたけれども。


高校時代からぼくは哲学書や思弁的な小説を読んでいたが、その感想を語れる人は少なかった。ふと、それを口にすると「暗い奴」と嘲笑された。京都という街で過ごす学生生活は楽しかったけれども、大学の中での思い出はあまり楽しいものではない。卒業して就職したメーカーで宣伝制作に関わる人々、デザイナー、コピーライター、写真家、心理学者といった職業の友人と出会った。彼らとは芸術や哲学について語り合えた。そこでやっと孤独から抜け出せた気がする。


あの時代、なぜ思弁的な人間を排除する風潮があったのか、その社会学的な理由はぼくにはわからない。ただ、ぼくは、その時期、短い期間だったが、権力で人を管理しようとする人間の下にいたことがある。それはぼくを「暗い奴」と蔑んだが、その経験から想像できることは、暗くない人間、ものごとを自分自身で入念に考えない人間は、とても管理しやすいのだ。一方で、権力者にとって「暗い奴」は、いつ自分に背くかもしれない、やっかいな存在なのだ。だから、権力者は、権力のありようについて考える人間に「暗い・ネガティブな人間性」という烙印を押し排除しようとするのだ。


80年代はバブル経済の勃興と破綻で終わった。今、ふりかえれば、それこそ「暗い」時代ではなかったか。すくなくともぼくにとっては暗い憂鬱な時代だった。

サンフランシスコの南、カーメル市で皮膚科学の学会があった。研究室のメンバーがほぼ全員参加した。その後、日ごろから親しかった仲間たちと海辺でキャンプすることになった。


キャンプ地ではまずバーベキューを楽しむ。ぼくだけが自分の車で来ていたので、米・独・仏・シリアの仲間が乗り込んで、材料を買いに出た。大変なことになった。


ドイツ人・ウーリヒ君が偏食で「海を泳ぐもの、羽の生えたものは食べられない」という。シリア人・モハメッド君には、もちろん豚が御法度である。で、メンバーでスーパーマーケットに出向く。肉は必然的に牛か羊になる。美味しそうな鳥のモモ肉があってもウーリヒ君が拒否する。脂がのって鮮やかな色合いの分厚い鮭も素通りする。でっかいソーセージが魅力的だったが、よく見ると素材がブタ肉である。あれもだめ、これはイヤだで大騒ぎしながらやっと買い物を済ませ、車に戻る。


フランス人・エメリさんが気づいた。「バーベキューの炭、だれか持ってきた?」。全員忘れていた。ぼくも含めて計画性がないグループであった。みんな研究者だろ、おい。今ならスマホで検索だろうが、当時(1994年頃)には、そんなものない。あてどなく、ぼくが運転していると、メンバーが「あ、今の店、炭売ってるんじゃない?」という。慌ててUターンして店に入る。これを何度か繰り返してやっと炭を確保した。


はあ、これで後はキャンプ地へ行けばいいのだ、と安堵しているとアメリカ人・ナンシーさんが言う。「ライター持ってる人、いる?」。全員、喫煙者ではない。日本のキャンプ地なら管理施設で着火器具ぐらい貸してくれそうだが、アメリカでは期待しないほうが良い。今度はたかがライターを求めてさまよう。正確に言うと、ハンドルを握るぼくが、あれこれ指図するメンバーに従って右折左折Uターンを繰り返す。渡米前はペーパードライバーだったぼくである。運転は苦手だ。ほとんどキレかかっていた。


あたりが暗くなってやっとたどり着いた海辺のキャンプ場。テントを立てたら、そのままぶっ倒れた。元気なメンバーが夜の海へ出て「夜光虫がいっぱいいて波が青く光ってる!すごいよー」と言ってくれたが、起き上がる気がしない。


次の日は、メンバーのツレたちが合流し、カヤックを楽しんだ。やっと平常にもどったぼくは、大変だったけど、そのうち良い思い出になるんだろうなあ、とパドルを動かしていた。

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