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執筆者の写真傳田光洋

京都を歩いていた

京都に6年間住んでいた。私設の学生寮だった。風呂なし。トイレ共用。2階の6畳部屋。窓から如意ケ嶽(大文字山)がすぐ近くに見えた。送り火の夜は周囲の道に観光客があふれていた。ちょっと優越感を抱きました。


あるいは、朝、「おぉおおー」という声で目が覚めるときがあった。窓の下の道をお坊さんの集団が声をあげながら足早に歩いていた。あれはどこの宗派の人たちだったか。そのお坊さん集団が吉田神社の参道で休憩されていたのも記憶している。


近所に銀閣寺があったが、6年間一度も行かなかった。拝観料をとられる場所には行きたくなかった。望めば家庭教師のアルバイトはあったのだが、しばらく務めて嫌になった。その後は親の仕送りだけで生活していた。週末や夏休みも、勉強するか本を読むか。それに飽きると、歩いていた。お金もないし、つきあってくれる女性もいない。しかし今、思い返すと、こころは満ち足りた生活だった。


銀閣寺のわきから如意ケ嶽に登って、京都の街を見下ろして、それから比叡平を経て大津まで歩く。勢いあまって卒業した高校まで歩くこともあった。京阪電車で蹴上にもどって琵琶湖疎水を見てから「哲学の道」を歩いて戻る。ギリシャ哲学の研究者田中美知太郎博士とすれ違ったことがある。「哲学の道」は名前だけじゃありません。


数えきれないぐらい歩いたのが、学生寮からひたすら北へ向かう道。一乗寺から松ヶ崎を経て貴船、鞍馬まで歩く。帰りは叡電で出町柳へ戻る。四季折々の景色があったが、印象的だったのが桜の季節。松ヶ崎の白川疎水あたりだったか、水面や道を花びらが覆って、夢の中の世界のようだった。


ちょっとした散歩では、近所の真如堂によく出かけた。新緑の季節には樹々の葉が光に透けてみずみずしく、秋の紅葉は燃えるようにはなやかだった。銭湯の帰りに夕日を観にいった。鐘撞堂から西山にむかって街が広がって見えた。山に陽が沈むのを見届けた。


その後、横浜に住み、サンフランシスコにも住んだ。それぞれの場所でも歩いていたが、京都の、あまり人が知らない場所を、独りで歩いていた記憶が、今も緻密な色と風の感覚といっしょに残っている。

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