ふとした風景や、ごく日常的な経験の中で、「永遠」や「宇宙」を感じる瞬間がある。ぼくにとってはアメリカの画家、アンドリュー・ワイエスの作品がそれだ。アンドリュー・ワイエスというと、特に芸術系の知人からは「写実的なテクニックはすごいけど、結局、イラストレーションじゃないの」などと言われる。
違う。ぼくは、ワイエスはシュルレアリスムの系譜に置かれるべき画家だと思っている。ワイエスは、ペンシルバニア州のチャッズフォードという小さな街にあった自宅兼アトリエと、メイン州クッシングという、もっと小さな海辺の集落にあった別荘の近所の風景、そこに暮らす平凡な、どちらかといえば貧しい知人を主として描いた。しかし、自宅に「仕事ありませんか?」と尋ねてきた浮浪者、別荘の隣人で生まれつき歩行に障害がある老嬢、切り株、井戸水の洗い場などを描いた作品を見ると、なぜだかわからないのだけれども、永遠とか宇宙、という事を考えてしまうのだ。
ワイエス自身、自分が絵を描いた場所に行っても、そこで絵に描かれた光景を見ることはない。自分は、ふとした瞬間、ある光景に接して心がさざめいた時のイメージ、それを絵にしているのだ、と語っている。それはシュルレアリスムの思想ではなかったか。
ぼくなりに勝手な解釈をすれば、ぼくたちは日常的な景色の中に、個人が認識しうる限られた時空間を超えた、世界、それをふと感じることがある。ワイエスは、何度もデッサンを重ね、水彩で試作を試み、最後にそれらから、自身が宇宙や永遠に触れた時のこころのゆらめきを構築するのだ。
代表作である「クリスティーナの世界」はクッシングに弟と住む、脚が不自由なため両手で這いながら家事をこなすクリスティーナ・オルソンの姿に感動し、頭部や手足は当時55歳だったクリスティーナ・オルソンのデッサンを基にし、胴体は新婚だった若い奥さんのデッサンから描いた。あの作品を遠くから見ると、あるいは小さな複製で見ると、若い女性が草原でくつろいでいると勘違いする人がいる。それはやむなき事で、あの印象的な後ろ姿は、ワイエスのこころ、脳の中で再構築された、実在しない人物の姿だからだ。
ぼくはワイエスが多くの作品を描いたクッシングのオルソン姉弟が住んでいた家、今は国家財産として保全されているのだが、そこを訪ね、家の中まで見せてもらえる機会を得た。さらに自宅近くで、これも数多くの作品の原点になったカーナー牧場も訪ねた。そして、ああ、あの作品をここで描いたのか、という景色をいくつも見つけたけれども、ワイエスが主張するように、その場で彼の作品に接した際の感動は得られなかった。
ワイエスの肖像画で若い少女の印象的な絵「Siri」がある。アトリエにそのシリ・エリクソン嬢の写真があった。写真でみると、どこにでもいそうな元気そうな平凡な少女である。しかしワイエスの絵を見ると人間の尊厳とか、生きる意志とか、さまざまな事が想起される。ワイエスは、たしかに風景や人物を入念に観察しデッサンを繰り返す。その営為の過程で、一己の人間が感知しうる時空間を超えた、世界の成り立ちや命の尊さを見いだし、テンペラ画という古風な手法で描き出すのだ。
たまたま数年前、ワイエスのコレクションで知られるブランディワインリバー美術館を訪れた。ワイエス生誕百年、ということで、代表的な作品が多く展示されており、その詳細を見ることができた。そこで発見したのは、人物画を描くときのワイエスの皮膚の描写への執着である。むさくるしい男のヒゲの剃り残し。老人の皮膚にあるシミ、若い少女の皮膚には産毛さえみえるようだった。
その後、ワシントンDCに行ってナショナルギャラリーを訪ねた。レオナルド・ダ・ヴィンチからゴッホ、ピカソまで、巨匠の作品が並んでいる。私は、ここでも人物画の皮膚を観察した。
写実的な肖像画家としてはアルブレヒト・デューラーがいる。その作品をみると、写実性は際立っているが、ワイエスのような皮膚の微細な表現はない。ダ・ヴィンチやゴッホは皮膚の質感には関心が薄かったように思った。レンブラントが唯一、皮膚の質感の描写に熱心だった。彼の晩年の自画像では、絵の具の厚塗りによって、老人の皮膚のたるみ、ゆがみが残酷なまでに描写されていた。しかしワイエスの皮膚、ここでは「肌」というぬくもりを感じる言葉を使いたいが、その肌の精緻な描写には程遠い。
アンドリュー・ワイエスの、とりわけ人物画の魅力は、肌の描写への執着かもしれない。