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執筆者の写真傳田光洋

教授の電話

ぼくは「カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)皮膚科学教室」の博士研究員だったのだが、当時、街中のUCSF本部は狭く、「皮膚科学教室」のイライアス教授は、街の北西の端、太平洋を臨む「退役軍人病院」の皮膚科部長を兼任していて、ぼくの職場、研究室はそちらのほうにあった。


「退役軍人病院」はアメリカ政府の「合衆国退役軍人省(略称VA)」の管轄下の施設で、かつてのアメリカ軍の勇士のためにある。全米の主要都市にあって、その街の州立大学の医学部と連携しているようだった。イライアス教授は研究施設の場所を確保することもあって、その任に就かれていたようだ。


だから、毎朝、研究室にたどり着く前に、かつての軍人さん、いまや、杖にすがったり、車いすのおじいちゃんになってる方々がいっぱいおられた。だからぼくは「大学に留学していた」というより「病院にいました」というのが率直な印象です。


でも、それが幸いしたことがあった。


留学中の1995年1月阪神淡路大震災が起きた。当時、父は滋賀にいた。ぼくの高校時代に急逝した母の実家は神戸市にあって、叔母がいた。そのほか、母方の親戚が関西に住んでいて、その安否が気になって、いてもたってもいられなくなった。父に電話しても通じない。そのほかの関西の親戚にも、おそらく回線が混みあっていたからだろうか、連絡がつかない状態だった。


研究室の事務室に行って、そのことを言うと、教授の秘書だったシャダさんが「教授の電話を使いなさい!」という。退役軍人病院は合衆国政府の機関なので、よくわからないが、ただの電話回線ではないようだった。ぼくは「でも、これは、ぼくの個人的な問題だから・・・」と言うと、シャダさんは「緊急事態でしょ!教授は今いないし大丈夫よ。さあ、電話しなさい!」と言う。あちこち電話をかけると、親戚の家につながって、父も叔母も無事だったことが確認できて安心した。


神戸市東灘区、当時、叔母が独りで住んでいた母の実家は完全倒壊していたが、叔母は無事、救出された。そのあと、電話回線はまともになった。


おちついてから改めて、シャダさんの機転が、しみじみありがたかったことを思い返した。

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