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小学校、中学校の時、「おちこぼれ」の気分をどっさり味わった。


入学試験なんかない田舎の町立小中学校だったから、机にむかう勉強は、まあできたのだが、運動神経が全くなかった。運動会の駆けっこなどでビリなのは構わないのだが、苦痛だったのがクラス対抗のサッカーだった。クラスでチームが複数組まれる場合、ぼくがメンバーだと決まると、同じチームのみなさんがため息をついた。申し訳ないけど仕方がない。


試合の時にはオノレの立場を十分わきまえ、なるべくボールが来ない場所に身を置くようにしていたのだが、えてして、そういう場所にボールは転がってくる。「こっちに蹴れえ!」と言われてあたふたボールを蹴ると、必ず味方から罵声をあびる方向にボールは転がってゆく。試合後、負けるとメンバーの中には泣いてる連中もいた。「たかがクラス対抗のサッカーやんけ」と涼しい顔をしていると、ものすごくトゲのある非難の視線をいくつも感じた。


ぼくが高校受験をひかえていた1970年代半ば。「文化大革命」がまだ正義だった時代である。その影響を受けて教師たちが「高校受験に向けて勉強ができる子、まあまあの子、できない子、3人組になって助け合う」という命令を下した。3人の選別は教師。ぼくは「まあまあできる子」だったが、そのチームで「できない子」だったK君の表情が忘れられない。中学校の同級生の名前はほとんど覚えていないが、K君のフルネーム、最初の「助け合い」の時の彼の視線、今でもありありと覚えている。彼の気持ちは、クラス対抗サッカーで邪魔者あつかいされたぼくにはよく想像できた。


数年後、ぼくは大学に進学していたが、地元に帰るバスの中でK君に出会った。「おお、元気そうやんけ。おれも今、がんばってるで」と笑顔で話しかけてくれて、ちょっと楽になった。

サンフランシスコで独り留学生活を始めて間もないころ、韓国出身の留学生と知り合いになった。仕事場の太平洋を臨む病院の中をうつむいて歩いていると、いきなり「センセイ、日本人ですか?」と日本語で聞かれて「はあ、そうですけど」と、びっくりして答えると、白衣を着た若い男性が「Mセンセイ、知ってますか?Mセンセイはすばらしい人でした。私は韓国の大学を出て日本に留学して、Mセンセイの指導を受けました。とても優しくしていただきました!」とニコニコして言う。


その後も、出会うたびに「あ、センセイ、元気ですか?」と手をふって声をかけてくれた。留学生活を始めて、まだ知り合いもできていない頃だったので、彼の笑顔には癒された。


留学から戻ってからさらに韓国とは縁が深くなった。2002年から2022年までの間、実に7回もソウルで開催された学会に招待された。4回目あたりから講演の冒頭でネタにした。「私は今回で韓国に招待されることX回目であります。一方で日本の皮膚、医学系学会から招待されたことは一度もありません。この点から私は韓国の医学、皮膚科学の研究者をより尊敬しております」。


映画「ドライブ・マイ・カー」に韓国人の舞台演出家が登場される。この人と、映画で奥さんを演じられる女優さん。この二人の礼儀正しく優しいたたずまい、ぼくの韓国の友人たちによく似ている。思い出すごとにこころが温かくなる。

高校1年の秋分の日の夜、母が喘息の発作で急逝した。家族は両親と自分だけだった。


通っていた高校は、山間部の家から電車を2回乗り継いで片道1時間半から2時間かかった。


突然の出来事で、なにがなんだかわからず、親族が集まり葬儀が終わった。たしか1週間ほど学校を休んだだろうか。通学が始まった。弁当などどうしていたのか、記憶にない。とにかく遠い高校には通い続ければならず、何もかも無我夢中で、その時期のことはよく覚えていない。


秋が深まり、日暮れが早くなり、帰宅するころには、あたりは暗くなっていた。誰もいない家に鍵を開けて入ると、やっと何が起きたのか、静かにわかり始めた。


それから数十年、ありがたいことに今ではちいさな家庭がある。


このところ、夕方自宅にいるのは自分だけのことが多い。毎晩、玄関の明かりをつけるようにしている。家族はあまり気にしていない様子だが、こまめに明かりをつけている。

Copyright © 2021 Mitsuhiro Denda
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