top of page
執筆者の写真傳田光洋

北の国から来た恩人

高校時代、英語の成績が悪く、進路指導の先生に「英語に関しては、国公立大学合格は無理」と言われたぼくだが、その十数年後、なんとアメリカに留学することになった。それについてはいろいろ理由があるけど、大学院時代の出会いが大きなきっかけだったのは確かだ。


修士課程1年のとき、ポーランドから研究室に留学生が来た。パヴェルという青年。30歳前だった。口ひげを生やし、背が高く痩せたハンサムだった。研究室には当時、博士課程3年、修士2年の先輩がいた。ランチタイムにはいっしょに近所の学生食堂に出かけた。パヴェルは日本語が全くできない。「ランチ?」「イエス」「ゴー」と誘うのはぼくの役目になった。食事しながらも、なにか話しかけねばいけないので、めちゃくちゃな英語で話しかけた。案外、会話になった。


親しくなると、いろいろ話した。びっくりすることも多かった。いきなりパヴェルは言う。「君たちはアメリカが憎いだろう?」「え?うーん、考えたこともない」「原子爆弾を落とされ、大きな都市が空襲を受けたじゃないか」「たしかにそうだけど、今の日本人の過半数はアメリカ文化に憧れてるんじゃないかなー」そういうとパヴェルは目をむいて「日本人はおかしい。ぼくたちポーランド人は侵略したドイツを今でも憎んでる!」。


キャンパスで日本共産党系の学生がビラを配っていた。パヴェルは訊く。「彼らは何者か?」「あージャパニーズ・コミュニストの関係者でしょ」。パヴェルはまた目をひん剥いて「ぼくたちはソビエトの怖さを知っている。日本人にはそれがわからないのか!」ちょうどそのころ、ポーランドでレフ・ワレサさんの「連帯」が活動を始めていたころだった。今、思えば世界史の大きな変化の時期でしたね。


パヴェルの留学生活の終わりごろ、来日した奥さんと四国旅行をしたいという。当時はネットなどないから、ぼくはガイドブックを買い、彼らが行きたい名所の一番安い民宿に電話して「えーっと、日本語できませんがハシは使えるし和食は食べられます」と予約を入れ、時刻表を見ながら計画表を作った。


パヴェルが去る時、彼は、新幹線京都駅でかたくぼくの手をにぎり「キミのおかげで楽しかった。ありがとう」と言ってくれた。


この経験で、ぼくは、受験英語はダメだが(今もそうです)、外国人とのコミュニケーションは案外、なんとかなるもんだ、と思った。その自信?があったので、後年、アメリカ留学を考えるようになった。パヴェルはぼくの恩人だ。

閲覧数:93回0件のコメント

最新記事

すべて表示

ゴードン会議

ゴードン会議、あるいはゴードン研究会議は、自然科学系の研究者なら誰でも知っているであろう国際会議だ。数学、物理、化学、生命科学、医学、さまざまな分野ごとの会議が、大体、夏、開催される。「哺乳類の皮膚バリア機能」の会議もあって、留学中、ぼくは指導してくださったイライアス教授、...

多国籍キャンプ

サンフランシスコの南、カーメル市で皮膚科学の学会があった。研究室のメンバーがほぼ全員参加した。その後、日ごろから親しかった仲間たちと海辺でキャンプすることになった。 キャンプ地ではまずバーベキューを楽しむ。ぼくだけが自分の車で来ていたので、米・独・仏・シリアの仲間が乗り込ん...

いろいろパーティー

留学中、研究室の友達とは、もっぱら各自の家でパーティーを開いたり、招かれたりで、わいわい騒いでいた。ぼくたちのアパートでも何度か開いた。牛のシャブシャブをよく提供していた。サンフランシスコの普通のスーパーマーケットでは、薄くても1㎝以上の牛肉しか置いていない。そこでジャパン...

Comments


bottom of page