「カラマーゾフの兄弟」は、いろんな人が「世界文学の最高峰」と言うので、気になる方は多いと思う。でも「挫折した」という友人も多い。それには理由がある。
たとえば日本の長編小説「楡家の人びと」の三姉妹では、傲慢な長女が龍子、美貌で早世する次女が聖子、お茶目な三女が桃子です。北杜夫さんは登場人物のキャラクターをイメージさせる名前をつけている。なので、人間関係が分かりやすい。
ところがカラマーゾフ・ブラザーズでは極道オヤジが「フョードル」、短気な長男が「ドミートリー」、無神論者の次男が「イヴァン」、敬虔な修道僧の三男が「アレクセイ」、私生児が「スメルジャコフ」。これだけでうんざりするのはまだ早い。ドミートリーの愛称がミーチャ、イヴァンの愛称がワーニャ、アレクセイの愛称がアリョーシャです。物語の中でこれらの名前が飛び交う。ぼくも最初に読んだとき、兄貴だと思っていた奴が「兄さん!」と言ったりするので混乱しました。ロシア人の名前にキャラクターを感じるなんて無理だし、そこに愛称まで出てきたら話についていけない。
なので、読む前に、愛称も含めた「系図」をWikipediaで調べて、そのメモを傍らに読むと、かなり楽になります。そして「カラマーゾフの兄弟」もそうですが、ドストエフスキーの他の長編「罪と罰」「悪霊」も殺人事件がからむミステリーなので、話に乗ってしまえば面白く読める。ぼくの新潮文庫「カラマーゾフの兄弟」は何度も読み返してボロボロだけど、そこまで読むと、フョードル、ドミートリー、イヴァン、アレクセイ、スメルジャコフというそれぞれの名前に濃厚なキャラクターを感じるようになり、そのほかのロシア、ソビエトの小説が読みやすくなる。
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」「灯台へ」。どちらも今は名作だと思うが、何の予備知識もなく手に取って、すいすい読める人は天才ではないか。独特のシカケがあるのです。「ダロウェイ夫人」は夫人の朝から夜までの物語。夫人を含めた登場人物の「意識の流れ」です。で、実は極端な場合、パラグラフごとに「意識の持ち主」が変わる。それが分かれば、たった1日の物語が、複数の人々、異なる場所、記憶から語られるので、奥行きと深みがある、読み応えのある作品であることがわかる。
ウィリアム・フォークナー「響きと怒り」。これも予備知識なしで読みだした最初は、なにがなにやらわからず放り出した。しかし、その第一部にもシカケがある。語り手に知的障害があって、過去30年間の出来事と、現在進行中の出来事が、ごっちゃになって語られている。しかし、それを踏まえて読むと、主人公たちの家族の歴史と現在が一気にうかびあがってくるのです。
長く読み継がれる文学にはそれなりの価値があり、読んでおくにこしたことは無いとは思う。ただ、ぼくのような頭が悪い、非文学的読者のために、たとえば文庫本の解説などに、ちょっと「読む工夫」を書いておいて欲しいとも思う。
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